薬も過ぎれば毒となる 薬剤師・毒島花織の名推理_塔山郁 薬も過ぎれば毒となる 薬剤師・毒島花織の 名推理 プロローグ  水尾爽太がその黒縁眼鏡の女性をはじめて見だのは、 吹く風もまだ冷たい三月初旬の頃だった。  神楽坂のホテルーミネルヴアに勤める爽太は、その 囗、〈風花〉という喫茶店にいた。  ナポリタンが美味しいという噂を聞いて、一人で昼 休みにやって来たのだ。午後一時を過ぎていたが、店 内はまだ混んでいた。空いていた窓際の席に座り、ナ ポリタンとコーヒーのセットを注文する。内装は昔な がらの喫茶店といった風だった。壁にはコーヒ上豆の 産地を記したポスターが張られ、細長いカウンターの 奥には色とりどりのコーヒーカップが並んでいる。時 間つぶしにスマートフォンを見ようとポケットに手を 入れた。  しかしそこには何もない。どうやら仕事場に忘れて きたようだ。混んでいるせいか、注文した料理はなか なか来ない。手持ち無沙汰にしていると隣のテーブル の会話が耳に入ってきた。そこには若い女性の二人連 れがいて、退職する同僚にどんな餞別を贈るかで揉め ていた。  「そんなの花束で決まりじゃない」花柄のスカーフを 首に巻いた、メイクの濃い女性がスマートフォンを見 ながら面倒くさそうに言った。  「花束を渡すのは当然じゃない。私か言いたいのは、 それ以外にも何かを贈ろうっていうことよ」ショート カットの女性がムッとしたように言い返す。  「でも同期とはいえ、私、彼女とはそんなに親しくし てないし」  「それは私だっておんなじよ。でも何もしないわけに はいかないじやない。あの二人は彼女を妬んでいる、 そんな噂を立てられるかもしれないし」  「そんなの放っておけばいいじやない」花柄スカーフ が、背もたれに体を預けて足を組み替える。  「あんたがよくても私は嫌なの。協力する気がないな らそれでもいいわ。私一人で贈るから」ショートカッ トは不満そうに口を尖らせた。  「ちょっと待ってよ。贈らないとは言ってないわよ。 いいわ。協力するわよ。それで何を贈るつもりでいる わけよ」  「だからそれを一緒に考えてほしいって言ってるの」  ショートカットが怒ったように言うと、花柄スカー フはあきらめたようにスマートフォンをテーブルに置 いた。「わかったわよ。そうねIブランド物の文房 具なんかどうかしら。実用的だし、お洒落で個性的な デザインの物ならプレゼントには最適だと思うけど」  「でも仕事を辞めて家庭に入る人に文房具を贈るのは 変じやない」  「じやあ、可愛いマグカップとか食器とかは」  「無難だけど、ありきたりかな。なんだか結婚式の引 き出物みたいだし」  まだまだ話は続きそうだった。盗み聞きするのも悪 いと思い、爽太は気をそらすつもりで周囲を見同した。  斜め向かいのテーブルの客に目が留まった。長い髪 をゴムで束ねて、黒縁のスクエアな眼鏡をかけた二十 代後半くらいの女性が本を読んでいる。亶]つすぐな鼻 筋と意志の強そうな太い眉をしているのが印象的な風 貌だ。黒いニットのセーターにゆったりした辛子色の パンツという服装で、真剣に文字を追っている横顔に なんとなく目を奪われた。  見るともなしに見ていると、ふいにその女性が顔を あげて目が合った。爽太は視線をそらして俯いた。そ こにタイミングよく注文したナポリタンが運ばれてき た。爽太はほっとしてフォークを取りあげた。ケ チャップの匂いが食欲をそそる。フォークに麺を巻き つけ口に入れると、ほのかな酸味を含んだ甘さがロー 杯に広かった。もちもちした麺にケチャップがよくか らみ、噛むほどに玉ねぎやピーマン、ベーコン、マッ シュルームの旨味が滲み出し、ケチャップの味を引き 立てる。朝から何も食べてないこともあり、がつがつ  と一気に食べ終えた。味はもちろんボリュームも十分  だ。仕事場の近くにこんな店があるとは知らなかった。  ナプキンで口を拭いながら、これからもちょくちょく  来てみようかな、と考えた。その間も隣の会話は続い  ていた。  「−スイーツはどう? 普段買わないような高級 チョコレートを贈るとか」  「彼女、たしか甘い物が好きじゃないはずよ」  「じゃあ、お酒とかコーヒーは?」  「ダメよ。お腹に赤ちゃんがいるんだもの。アルコー ルやカフェインはNGよ」  「ああ、もう面倒だな。いっそのことカタログギフト にでもしたらどうかしら」花柄スカーフが投げやりな 意見を口にする。「もう私には無理。今度はあんたの 意見を言いなさいよ」  「私の意見を言うならハーブティーとかはどうかしら。 カフェインが含まれていないから母胎に影響はないは ずよ」  「ハーブティー?」花柄スカーフが顔をしかめる。 「私の意見にあれだけダメ出ししておいて、それで自 分の意見がハーブティー? やめてよ。それだって十 分にありきたりじやない」  「そうだけど、他にいいアイデアもないし、このへん で手を打つのが無難しやないかしら」  「あんた、最初からそれにしようと思って、私の意見 に片っ端からダメ出ししたわけね」  「そんなことないわよ。いい意見があればそれにしよ うと思ってたわ」  そう言いながらショートカットはスマートフォンを 取り出した。  「ミント、カモミール、レモングラスーどう? こ のあたりならお洒落な響きがあるじゃない」  「やめてよ。ハーブティーがお洒落だなんて、いまど き田舎の女子高生だって言わないわよ」  「じゃあ、これはどう? ほら、これを見てI」  ショートカットがスマートフォンの画面をかざす。  「ちょっと面白い名前のハープじゃない。その由来も 面白いわよ。ヨーロッパでは〈聖ヨハネの草〉と呼ば れて、古くから万能薬として崇拝されていたんですっ て。効果が一番高まるのは夏至の前夜で、その囗に摘 んだものは特別な魔力を持って、一年間病気や死の恐 怖から解放されるという伝承があるらしいわよ。女性 は一年以内の結婚や出産が叶えられるとかで、当時は 年頃の娘が必死になって探しまわっていたそうよ」  スマートフォンを見ていた花柄スカーフが口をへの 字にして頷いた。「まあ、これならいいかしら。…… でも、これだと話が逆じゃない。そんな効き目がある のなら彼女じゃなくて、私たちこそそのハーブティー を飲むべきじゃない」  「言われてみたら、たしかにそうね」  そこで二人は顔を見合わせると、楽しそうにゲラゲ ラと笑った。  「三人分頼んで、私たちも飲んでみる?」花柄スカー フが笑いながら言う。  「それもいいかもしれないわね。このハープ、別名を ハッピーハープとかサンシャインハープというんで すって。幸福感を感じさせるセロトニンの分泌を促す 作用があるみたい」とショートカットが言葉を返す。  「飲めば幸せになれるのね。いいじやない。もうそれ に決めましようよ」  「じやあ、この通販サイトで注文するわよ。プレゼン ト用の包装もしてくれるみたいだから、どれがいいか 選んでよ」  二人は一緒にスマートフォンをのぞき込んでいる。 話がまとまったようで他人事ながらほっとした。ハー ブティーに興味はなかったが、今の話を聞いて興味を ひかれた。聖ヨハネの草なんて、昔話に出て来る魔女 が使いそうな薬草だ。正式な名称は何というのだろう。 まさかこの二人に訊くわけにもいかないし、ホテルに 戻ってスマートフォンで調べてみようかな。  そんなことを考えながら食後のコーヒーを待ってい ると、隣から「何ですか、あなた」という声がした。 そちらを見ると黒縁眼鏡をかけた女性が隣のテーブル の横に立っている。斜め向かいの席にいた女性だった。  「もう一度言います。さしでがましいとは思いますが、 やめた方がいいと思います」と冷静な口調で二人連れ に声をかけている。  「−あなた、誰ですか。他人の話に口出しするなん て失礼じやないですか」  ショートカットが眉間に皺を作って硬い声を出す。  「はい。たしかに失礼とは思いました。でも仕事柄、 放っておけないこともあるんです」と黒縁眼鏡はひる むことなく言葉を返す。  「放っておけないことって何ですか」今度は花柄ス カーフが声をあげる。  「プレゼントに選んだそのハーブティー、セント ジョーンズワードですよね」  ショートカットと花柄スカーフはぎよっとしたよう に顔を見合わせた。爽太も少し驚いた。名前は口にし てはいなかった。  「聖ヨハネの草と聞いてわかりました。たしかにセン トジョーンズワートには軽度から中度のうつ病の治療 に効果があり、リラックス作用があることから健康食 品やサプリメントによく使われています。しかし成分 に子宮を収縮させる作用があるため、妊婦は摂取を控 えるべきとされているんです」  「えっ、嘘−!・」  ショートカットは液晶画面をタップしながら、「そ んなこと、どこにも書いてないわよ」と言ってから、 「あっ」と短く声をあげた。  「妊娠中はご注意くださいって、最後の方に書いてあ る。何よ。こんな後ろの方に、こんな小さな文字で書 くことないじゃない!」  「見せて」と花柄スカーフがスマートフォンをのぞき 込む。「本当だ。でもこんな書き方じゃわからないわ よね」  「ねえ、もし私たちがこれを贈って、お腹の赤ちゃん に何かあったら、私たちが悪かったことになるの?」  「そうなるわね。でも彼女が気づいて飲むのをやめた かもしれないわよ」  「それだって私たちが悪者になるじやない。無知な女 だと思われるならまだいいけど、同期の妊娠と結婚を 妬んで、流産させようとした悪意の瑰みたいに思われ るかも」  「やだ。そんなのってありえない!」  二人は顔を見合わせて、ぶるりと肩を震わせた。  「早めに気づいてよかったわ」  「本当、知らずに贈っていたら、どんなことになった か」  二人は、ほっと息をついてから、「−あの、教え てもらってありがとうございます」と首を縮めて横を 向いた。しかしそこに黒縁眼鏡の女性はいなかった。 二人がスマートフォンを見ている間、会計を済ませて 店を出ていったのだ。二人はポカンとした顔で、あた りをきょろきょろと見まわした。  「いなくなっちやった」  「お礼を言おうと思っだのに残念ね」  「仕事柄とか言っていたけど、もしかしてハープ関係 のお店の人かしら」 「そうかもね。もしまた会えたらお礼を言わなく ちや」  「でも、贈り物はどうしよう」  「それはまた今度にしましようよ。私たちもそろそろ 行かないと」  「やだっ、もうこんな時間。遅れたらまた課長に嫌味 を言われちやう」  二人はハタハタと会計を済ませて店を出て行った。  残された爽太は、狐につままれたような気分で今の 出来事を振り返る。  どうやら妊娠した女性が飲んではいけないハープ ティーがあるらしい。あの二人がそれを知らずに贈ろ うとしたために、たまたま隣に居合わせた黒縁眼鏡の 女性がそれを注意したということらしかった。  運ばれてきたコーヒーを飲みながら、あの黒縁眼鏡 の女性は何者なのだろう、と爽太は考えた。ハープ関 係のお店の人かしら、とあの二人は言っていたが、雰 囲気的に違うようにも思われた。それでもこの近くで 働いている女性であることは間違いないだろう。  それならばまたこの店に来れば会えるだろうか。  これからもちょくちょくこの店に足を運んでみよう かな、と爽太はそんなことを考えながらコーヒーを飲 み干した。  I  か、痒いI。水尾爽太は歯を食いしばって、襲っ てくる痒みを必死に耐えた。  親指の付け根から広がったムズムズ感は、いまや耐 え難い痒みとなって足の裏全体に広かっている。すぐ にでも靴と靴下を脱ぎ捨てて、思う存分に足の裏を掻 き毟りたかった。しかしそれは出来ない相談だった。 到着するエレベーターからは、宿泊客が引きも切らず 降りてくるからだ。  爽太はホテルのフロント係たった。二十五歳。大学 を出て三年目のまだ駆け出しとも言える存在だ。仕事 の最中、痒みに苦しむ顔を人前にさらすわけにはいか ない。痒みに身をよじりながら、笑顔を作ってチェッ クアウトの応対をした。接客に集中している間は痒み を忘れるが、途切れて、ほっとした瞬間、それは二倍 三倍になってぶり返す。爽太はフロントに立つたまま、 足をもじもじさせながら、買い替えたばかりの革靴の 中で、十本の指を必死に動かした。  梅雨が終わる頃に患った水虫は、市販の水虫薬はも ちろん、病院で処方された薬を塗っても良くならな かった。水虫の原因は白癬菌というカビである。用法 用量を守って薬を患部にしっかり塗ること。そして足 を清潔に保つこと。それが完治への第一歩だと調剤薬 局の薬剤師に教えられた。だから仕事用の革靴も買い 替えたし、シャワーも朝と夜に浴びている。それなの に痒みは一向に治まろうとはしなかった。  時刻は午前十一時になるところ。夜勤の終わりまで はあと一時間。早く進め、と壁にかかった時計の針を にらむが、もちろんそんなことで気がまぎれることは ない。無意識のうちに、足をもぞもぞさせていたよう で、隣にいた先輩の馬場さんが声をかけてきた。  「なんだよ。さっきから足をくねくねさせちやって。 トイレでも我慢しているのか。それなら早く行ってこ いよ。ここは俺が見ていてやるからさ」  爽太はムッとしながら、「大丈夫です」と返事をし た。  馬場さんは御年五十五歳、日本全国の様々なホテル を渡り歩いてきたベテランのフロントマンだった。仕 事は出来るし、客受けもいいが、バツニでお調子者、 酒とギャンブルに目がない御仁だ。その馬場さんが、 年季の入った水虫の持ち主なのだ。こいつとは二十年 来の腐れ縁だ、とぼやきながら、休憩中は裸足になっ て、薬を塗りながら団扇であおいで乾かすのが日課と なっている。さすがに客前ですることはないが、バッ クヤードでは人目を気にすることもない。  「もう、馬場さん、ここで裸足になるのはやめてくだ さいよ。見ているだけでこっちも足が痒くなってきま す」  若い女性社員に怒られても、「いやあ、乾燥させな いと悪化しちやうからさ」とまるで悪びれることがな い。  最近は、半ば苦々しくも、羨ましい気持ちでその様 子を爽太は見ている。インターネットで調べたところ、 白癬菌は何より高温多湿を好むと知ったからだ。乾燥 させることが完治の条件となるらしい。しかし女性社 員の反応を見れば、さすがに真似することは出来な かった。さらに忌々しいのは、爽太の水虫が馬場さん から伝染されたとしか思えないことだ。  爽太は千葉県浦安のマンションで、両親、妹と暮ら している。しかし家族に水虫を恣っている人間はいな い。職場で他にそれらしい人間もいない以上、馬場さ んから伝染されたと考えるのが妥当だった。  あれは足が痒くなりはじめる半月ほど前のことだっ た。仕事帰りに馬場さんに飲みに誘われた。そこは座 敷席しかない居酒屋で、帰り際、酔っぱらった馬場さ んが間違えて爽太の靴を履いて帰りかけた。すぐに気 づいて呼びとめたが、足の裏が痒くなっだのは、それ からしばらくしてのことだった。ドラッグストアで水 虫薬を購入して塗ったが効き目はなかった。それでホ テルの近くのクリニックに行った。塗り薬を処方して もらい、調剤薬局の薬剤師に言われた通りに塗布した が痒みはなかなか治まらなかった。  それどころか最近では前にも増してひどくなってい る。足の裏に広がる痒みに耐えながら、とんだ貧乏く じを引かされたと爽太は歯噛みした。  馬場さんの人柄は嫌いではないし、一緒に仕事をし て勉強になることは多い。これで人並みの衛生観念さ えあれば、きっと素晴らしい先輩であったろうに、と 爽太はこっそりため息をついた。  また痒みの波が来た。爽太は足をもぞもぞさせなが ら、目をつぶって、奥歯を噛みしめた。知らないうち に体がゆらゆら揺れはじめる。  「なんだ。大きい方か。我慢すると体に悪いぞ。早く トイレに行ってこいよ」馬場さんが耳元で囁いた。  「違いますって」と言いかけて、そこではっと気がつ いた。  「すみません。じやあ、ちょっと行ってきます」  フロントから出ると、バックヤードから私物を入れ たバッグを取り上げ、従業員用のトイレに駆け込んだ。 素早く個室のドアを閉めると、もどかしい思いで靴と 靴下を脱ぎ捨てる。タオルで足の裏を拭いてから、薬 のチューブの蓋を取り、指にとったクリームを患部に 塗りつけた。ひやりとした感触が心地よい。しかし チューブに薬はあまり残っていなかった。両足の患部 に塗りつける前にぺしゃんこになって、指先で押し出 そうとしても出てこない。  たしか新しいチューブがもう一本あったはず。バッ グからそれを取り出そうとして手が滑った。新しい チューブは便器の中にぽちゃんと沈んで、すぐに浮い て来た。個室を飛び出し、用具入れにあった掃除用の トングで拾った。まだ開封する前とはいえ、便器に落 ちた薬を使う気にはなれない。これが最後の一本だっ たのに。薬がないと思うと、さらに痒みが増してくる。 仕方ない。またクリニックに行くしかないようだ。時 計を見るとあと二十分ほどで正午になるところ。時間 になったらすぐにあがろうと爽太は決めた。 「水尾さんね。それでその後はどんな具合かな」  背もたれのついた大きな椅子に背中を預けたまま、 金縁の眼鏡をかけて、口ひげを生やした五十歳くらい の医師が言った。ホテルから歩いて十分ほどの場所に ある是沢クリニックの院長だ。  「薬を塗ってもあまり効果がないようで。痒みがなか なか治まりません」  「薬が効かない? ちゃんと言われた通りに塗ってい るのかね」院長はパソコンを見ながら、疑うような声 を出す。  「はい、一応」  「一応じやダメだよ。薬剤師の指示通りにちやんと塗 らないと」  治らないのは薬の塗り方が悪いとばかりの言い方 だった。  「じやあ、足を見せて」  院長は爽太の方を向く。仏頂面で、容易に話しかけ られる雰囲気ではない。爽太は丸椅子に座ったまま、 言われた通りに靴と靴下を脱いだ。  「……ふん。前より赤くなっているかな」  ちらりと見てから、「もういいよ」と椅子を同して パソコンに向き直る。  「同じ薬をもう一度出すから、今度はきちんと塗るよ うに。それでも治らなかったらまた来なさい。そのと きはもっと強い薬に替えるから」  爽太の顔も見ずに院長は言った。どうやら診察は終 わりらしい。  「あの、薬の塗り方ですけど、どこが悪かったんで しょうか。朝昼晩と言われた通りに塗ったつもりなん ですが」  爽太の質問に、院長は面倒そうに首を巡らした。  「そんなことは薬局で聞きなさい。そのために薬剤師 がいるんだから。餅は餅屋って言うだろう。薬は医師 の管轄じゃないんだよ。医薬分業って言ってね、厚労 省がそう決めたんだ。だからその質問は僕が答えるこ とじゃない」  質問するなら薬剤師、と院長は面倒そうに言い捨て る。物を知らない若造を鼻で笑うような言い方だった。  「わかりました。ありがとうございます」  ムッとする気持ちを抑えて頭を下げる。前回もそう だが、どうにも横柄な態度だった。よくこれでやって いけるよな、と爽太は思う。ホテルやレストランと いった接客業の人間があんな態度を取ったら、すぐに クレームの嵐が吹き荒れることになる。  もっともそのせいなのか、待合室に人はあまりいな かった。杖をついた老人が一人と、身なりのいい中年 女性が一人いるだけだ。それでもつい足を運んでしま うのは、この是沢クリニックが内科、心療内科、小児 科、皮膚科といくつもの診療科目を掲げているからだ。 どんな症状であっても、とりあえずここに来ればなん とかなるような気がする。さらに仕事柄ということも ある。こういうクリニックが近くにあると便利なのだ。 具合の悪くなった宿泊客が出たとき、子供であれ、大 人であれ、よほど重篤な症状でない限りは、とりあえ ずここを紹介すればことは済む。  待合室に座っていると次第に眠気が催されてくる。 うとうとしかけて、それと同時に足の裏がまた痒くな りだした。早く薬を塗りたいところだが、そのために は処方箋をもらって、それを調剤薬局に持って行かな くてはならない。これが医薬分業ということか。  「−さん」  うとうとしかけていると、受付の女性の声がした。 一瞬、自分かと思ったが、中年女性が席を立つだので 違うとわかった。女性は財布を出して、一万円札を二 枚、カウンターの上に置いた。健康保険があるはずな のに、あんなにお金を払うのか。自分の財布には一万 円しか入っていない。不安になって、初診のときのこ とを思い出す。たしか千円か二千円で済んだはず。今 回だって処方箋をもらうだけだし、一万円以上かかる ことはないはずだ。  ドキドキしながら待っていると、ようやく爽太の名 前が呼ばれた。当然ながら前回よりも安い額だった。 とりあえずほっとしたが、あれだけの診察で金を取ら れること自体、法外なことにも思えてくる。  釈然としない気持ちになりながらも会計を済ませて クリニックを出た。  入れ違いに太鼓腹が突き出た背広姿の男性が入って いく。たぶん近くの会社に勤めているのだろう。昼食 を終えた後なのか、爪楊枝をくわえたまま、そそくさ とクリニックの中に消えていく。患者が少ないことを 見越して来る人もいるということか。院長がどれだけ 横柄で不愛想であっても、待ち時間が短いことがメ リットになることもあるわけだ。  エレベーターで一階に降りると、エントランスでビ ルの名前に目が留まった。是沢ビルと書いてある。あ あ、そういうことか、と爽太は納得した。患者が少な くても横柄でいられる理由がわかった。診察料を補っ て余りある家賃収入があるのだろう。  爽太は肩をすくめて外に出た。九月の半ば。初秋の 爽やかな風が心地よい。近くに調剤薬局は二軒ある。 一軒はクリニックのそばだが方向が駅とは反対だった。 もう一軒は少し歩いた先にある。あの風花のはす向か いだ。前回はそちらに行って、薬をもらった後で風花 に寄ったのだ。今回も同じルートで、薬をもらった後 でナポリタンを食べよう。  爽太はすぐに歩き出した。ビルの立ち並ぶ通りから、 石畳が敷かれた路地に入っだ。ジグザグに折れ曲がる 路地をしばらく歩くと坂道に出る。その下った先に目 的の調剤薬局はあった。〈どうめき薬局・どちらの処 方箋でも受け付けます〉と書かれた看板が入口の横に 置いてある。  中に入ると、受付の女性に処方箋と保険証を渡して、 番号札をもらった。椅子に座り、壁に掲げてある薬剤 師の名前をちらっと見る。あるのはすべて女性の名前 だ。調剤薬局で薬を処方してもらうのが嫌なのは、足 を運ぶのが面倒だという理由の他に、薬剤師のほとん どが女性だからということもある。たとえ薬剤師とは いえ、水虫だということを女性に知られるのは恥ずか しい。  前回、薬を渡してくれたのは四十歳前後に見える薬 剤師だった。女性だが年上ということで我慢は出来た。 今日、同じ人はいるだろうか。カウンターの中を見た が、それらしい姿は見当たらない。いるのは別の二人 の薬剤師だった。二人とも女性で若そうだ。自意識過 剰だとは思うが、なんとなく憂鬱な気分になってくる。  落ち着かない気持ちで、二人の女性薬剤師の様子を 盗み見る。それぞれ自いマスクをしているために、 はっきりした顔立ちはわからない。一人は眼鏡をかけ た暗い感じの女性だった。長い髪を黒いゴムで無造作 に結び、額にしわを作って、手元のタブレットをにら んでいる。  もう一人は、背格好は同じだが、年齢は少し若くて、 ウェーブのかかったゆるふわのセミロングをバレッタ でまとめた女性だった。目がくっきりと大きく見える のは、化粧をしっかりしているせいだろう。顔立ちも 可愛らしく、どこか小動物めいた雰囲気がある。老人 に薬の説明をするのに、身振り手振りをましえて一生 懸命なところも好感がもてる。  他の場所で接客を受けるとして、どちらを選ぶかと 言われたら、即座にゆるふわセミロングを選ぶだろう。 しかしこの場に限ってはその答えは逆になる。この場 限りであっても、向こうはこちらのことなど気にかけ てはいなくても、とにかく恥ずかしいものは恥ずかし いのだ。  しばらくして爽太の番号が呼ばれた。願いが通じた のか、カウンターには眼鏡の地味な女性が立っている。 ほっとして爽太は立ちあがる。  「水尾爽太さんですね」  訊かれて、はい、と返事をした。何気なく薬剤師の 胸元に目をやって、ぎよっとした。白衣を押し上げる 胸のふくらみが思った以上にあったからIではなく 名札に毒島と書かれていたからだ。どくじま、いや、 ぶすじま、か。でも薬剤師なのに毒島って。驚くと同 時に、ふと何か気の利いたことを言いたくなった。  −珍しいご苗字ですね。ところでこの薬は大丈夫 ですか。まさか毒が入っているなんてことはないです よね。  しかしすぐに思いとどまっだ。冷静に考えてみれば、 そんな台詞はまるで気が利いていない。彼女からすれ ば、そんなジョークは、きっと耳にタコが出来るほど 聞かされていることだろう。 「こちらが処方箋のお薬です」  眼鏡の薬剤師−毒島さんが薬袋からチューブを取 り出してカウンターに置いた。ラベルにはアスサット と書いてある。たしかに前回もこれだった。  「はい。間違いないです」  「症状はいかがですか。改善されていますか」  どこかで聞いた覚えのある声だ。爽太は顔をあげて 毒島さんを見た。口元を覆った自いマスクのせいで はっきりした顔立ちはわからない。しかしスクエアな 黒縁眼鏡と眉の太さで気がついた。前に風花で見かけ た女性だ。  そうか。薬剤師だったのか。薬をもらったらすぐに 帰るつもりでいたが、そうとわかれば話は別だ。風花 でのことを訊いてみたいと思ったが、いきなりその話 を持ち出すのも唐突だろう。そのとき是沢院長の言葉 が頭に浮かんだ。餅は餅屋、薬のことは薬剤師に訊け ばいい。  「−実はあまり症状が改善されなくて。先生に言っ たら、薬の塗り方が悪い、薬剤師に塗り方を訊きなさ い、と言われたんですが」  とりあえず薬の話をきっかけにした。  「前回、塗り方を説明しませんでしたか」毒島さんは 手元のパソコンに目を落とした。  「方波見が担当してますね」  たしかにそんな名前の人だった。爽太は頷いて、  「説明は聞きました。丁寧に説明してもらって、その 通りにしたつもりです。でもよくならなくて……。も しかしたら聞き間違えたのかもしれません。出来たら もう一度説明してもらえますか」と言葉を続けた。  「わかりました。どういう風に塗りましたか」  爽太は教えられた塗り方を説明した。  「間違ってはいませんね」毒島さんはあっさり言った。 「塗り忘れたことはありますか」  「仕事が不規則なので、二度か三度、塗り忘れたこと はありますが」  「ご自身の判断で薬の量を変えたり、途中で塗るのを やめたことは?」  「いえ。それはありません」  「前回出だのは一か月分ですね。手元に残っている薬 はありますか」  「えIと、チューフー本余りました。アクシデントが あって、使えなくなって、それで今回もらいに来たわ けです」  余ったということは、塗る量が少なかったというこ とか。爽太が質問すると、その可能性はありますが、 でもそれが原因だとも言い切れないですね、と毒島さ んは言った。  「症状ですが、よくなったり、悪くなったりを繰り返 すという感じですか。あるいはよくも悪くもならずに 小康状態が続いているとか」  「後の方ですね。最初は薬を塗って、よくなったよう な気もしたんですが、実際はあまり改善されてないよ うで、最近になってまた痒みがひどくなっているよう な気がします」  「なるほど。そういうことですか」  毒島さんはパソコンの画面を見たまま、何かを考え 込んでいる。  「立ち入っだことをお訊きしますが、是沢先生は症状 に対して、どんな診断を下されましたか」  爽太は戸惑った。薬を処方しているのだから、病名 くらいわかりそうなものだけど。  「……水虫です」  恥ずかしいという気持ちはおきなかった。たぶん毒 島さんが真剣な顔をしていたからだろう。爽太は病院 にかかるまでの経緯をかいつまんで説明した。話が終 わると毒島さんは眉間に皺をよせた。  「もうひとつお訊きしたいのですが、最初の診察のと き、顕微鏡検査はしましたか」  「顕微鏡検査ってなんですか」意味がわからず爽太は 訊いた。  「ピンセットを使い、患部の皮膚、角質、爪の一部を 採取して、薬液を使って菌を抽出する検査です。顕微 鏡で見て、そこに白癬菌を確認できれば白癬感染症 −足白癬という診断がくだされます」  「足白癬−?」  「水虫の正式な診断名です」  「いえ、そんな検査はしてないですが」  是沢クリニックの院長は患部を見ただけで、ああ、 水虫ね、と言ったのだ。  いや、正確に言えば、最初に水虫と言ったのは自分 だった。どうしました、と訊かれたので、水虫だと思 うんですが市販薬を塗っても治らないので診てもらい に来ました、と答えると、院長はちらりと患部を見た だけで、じやあ、薬を出すから、と頷いたのだ。  市販薬を塗ったら痒みが増したような気がするんで すが、と言ったところ、素人判断で勝手に薬を塗るか らそんなことになる、処方薬を出すからもう市販薬は 塗るな、と怒られたこともついでに話す。毒島さんは 頷くと。  「足白癬に似た症状の皮膚病はいくつかあります。本 当に足白癬かどうかは皮膚の一部を顕微鏡で見て、白 癬菌がいるかどうかを確認しないとわかりません」と 重々しく言った。  「是沢クリニックの院長先生は見ただけで水虫だと言 いましたけど」  「長年、経験を積んだ医師なら、患部を見ただけであ る程度の判断はできるかもしれません。でもそんな先 生であっても、しっかりと診断を下すには、必ず顕微 鏡検査をすると思います。実際に、患部を見て足白癬 と思われても、検査をしたら白癬菌は見当たらなかっ たというヶIスもあるようですから」  毒島さんの話を聞いても、爽太はすぐには信じられ なかった。そこで水虫だと思った原因−馬場さんの 靴の取り違えの件を爽太は口にした。すると毒島さん はあっさりとかぶりを振った。  「白癬菌はその程度では伝染らないと思います。空気 感染はもちろんですが、患部に接してもすぐに感染す ることはないはずです。感染部位から剥がれ落ちた皮 膚に潜んでいる白癬菌に触れることが、主な感染の原 因になるはずですから」  「でも、水虫じやないとしたら、この痒みの原因は何 ですか」  「私は医師ではないので、はっきりしたことはわかり ませんが」と前置きをしてから、「最初に痒みが出だ のはいつ頃ですか」と毒島さんは言った。  「梅雨の終わりです。足の裏や指の間に痒みが出て、 放っておいたらどんどんひどくなって」  「最初に塗布した市販薬の名前を覚えていますか」  思い出そうとしたが出てこない。すると毒島さんは タブレットを取り出して、水虫の市販薬の画像を呼び だした。  「そのOTC薬、一般薬のことですが、それはここに ありますか」  『えIと……y』れです」  爽太が指さす薬を見て、毒島さんは小さく頷いた。  「この薬は痒みを抑える効果に加えて、殺虫効果もあ るため、足白癬の治療にはよく使われます。しかし他 の症状、たとえば接触性皮膚炎などの場合、症状が改 善しないばかりか、さらにひどくなることもあるよう です」  説明を聞きながら、水虫じゃないって、じやあ、是 沢クリニックの院長の診斷はなんだったんだよ、と爽 太は思った。あの金縁眼鏡の口ひげ親父、偉そうな態 度を取っていたくせに、とんだヤブ医者だったという わけか。  「接触性皮膚炎の原因は、何らかの外的刺激が肌に接 触することで起こります。植物や昆虫の毒などによる 刺激の他、アレルギー反応による炎症も含まれます。 そういったことに心当たりはありますか」  そう言われても思い当たることはない。自宅はマン ションで庭はないし、観葉植物の類いも置いてない。 仕事で植物や昆虫に触れる機会もないし、ひどいアレ ルギー体質というわけでもない。  「別にないですI」と言いかけて、ふと思い出した ことがある。特売で通気性のいい靴下を安売りしてい たとかで、母親が大量に買ってきたことがあったのだ。 それが梅雨の頃だった。これから暑くなるし、使いな さいよ、と渡された。外国製で、十足千円で売ってい たそうだ。言われてみれば痒くなり出しだのは、あの 靴下を履いた頃からだ。馬場さんのことがあり、ここ までそれを痒みとつなげて考えたことはなかった。そ の話をすると、毒島さんは頷いた。  「それが原因の可能性はありますね。外国製の粗悪品 には、化学薬品が付着している物もあるようですか ら」  化学薬品のアレルギーを起こしたのに、原因を水虫 と思い込み、素人判断で塗った市販薬がそれを悪化さ せたということか。  「水虫の薬を塗っても治らないのはそのせいですか。 じやあ、アレルギーに効く薬をください」爽太は言っ たが、毒島さんはあっさりとかぶりを振った。  「今の話はあくまでも可能性の話であって、そうと決 まったわけではありません。いま水尾さんがするべき は、再度、クリニックを訪れて、顕微鏡検査を行うこ とだと思います」  顕微鏡検査と聞いてうんざりした。ようやく帰れる と思っだのに、またクリニックに行かなくてはいけな いということか。  「本来の筋からすれば、もう一度是沢クリニックに行 き、事情を話して顕微鏡検査をしてもらうべきですが −」  毒島さんの言葉に爽太は思わず、げっ、と口にした。 いくらなんでもあの院長に検査をしてもらいたいとは 思わない。爽太の反応で心情を察したのか、「それな ら他の病院に行くことをお勧めします。駅の向こうに 皮膚科があります。足立皮膚科というところです。そ ちらで診てもらうのはいかがですか」と毒島さんは 言った。  そこは爽太が候補から消した女医が院長の皮膚科 だった。なんだ。結局、最初の選択に戻るのか。面倒 臭いという気持ちに襲われる。  「……とりあえず今日はこの薬をもらって、そこに行 くのはまた後日でいいですか」  他人事のような台詞が口をつく。すると毒島さんは 眉根を寄せて、厳しい顔をした。  「これは先送りして、どうにかなることではありませ ん。ご自身の健康のことですし、もっと真剣に考えた 方がいいと思います」  「ダメですか」  「私か決めることではありません。ご自身で判断して お決めください」  ご自身で、と言いながら、毒島さんの目は、答えは ひとつしかないと言っていた。  「その皮膚科の先生は信頼できる人ですか」仕方なく そう訊いてみる。  「親切で腕がいいと評判です」  毒島さんはあくまでも冷静だった。ここまで感情の 動きがまるで見られない。その態度に、ちょっとだけ 反発心が湧いた。  「ということは、是沢クリニックの院長は親切でなく、 腕も悪いということですね」  皮肉まじりに言ってみる。しかし毒島さんは動じる ことなく、  「是沢院長が、医師として腕がいいかどうかを論評す る立場に私はいません。ただ薬剤師として、この薬を 一か月塗り続けて患部がよくならないのなら、その診 断に疑義を抱く必要があるだろうとは思います。だか ら専門医にかかった方がいいと言ったのです」  「専門医って、是沢院長は皮膚科の先生でもあります よね」  是沢クリニックの看板には内科、心療内科、小児科、 皮膚科と書いてあった。すると毒島さんは鼻の付け根 にしわを寄せて、「標榜科目というのをご存知ですか」 と言った。  医師は開業にあたって、専門分野や経験年数に関係 なく、好きな診療科目を自由に掲げていいそうだ。 よって患者を集めたい医師ほど、多くの科目を看板に 掲げることになる。  「一般的な医師の常として、自分の専門、得意な科目 ほど先に掲げる傾向があるようです。その線で行くと、 是沢院長の得意とするのは内科です。あのクリニック も、昔は、それぞれの科の先生が外からいらしていた と聞いています。でも最近はそれがなくなり、院長が 一人で全部を診ているとか。一人で様々な症状の患者 さんを診るのは大変なことだと思います。そういう事 情もあって、色々と行き届かない面があるという評判 は耳にしています」  なるほど。そういうことだったのか。きっと外から 医者が来なくなったのは、あの院長の性格や人間性に 原因があるのに違いない。爽太は納得したが、それで も問題は何ひとつとして解決していないことにも気が ついた。やはり専門医に行くしかないようだ。女医と いうことが恥ずかしいが、この期に及んでそんなこと を言ってはいられない。いや、待てよ。そもそも水虫 でないなら、恥ずかしいと思う必要もないわけか。  「わかりました。行ってみます。でも、この薬はどう すれば」  「キャンセルします。処方箋はお返ししますから」  毒島さんは塗り薬のチューブを手元にさげて、代わ りに爽太が持ってきた処方箋を差し出した。「ちなみ にですが、是沢クリニックに持って行って、この処方 箋を取り消してもらえば、処方箋発行料が返金されま すが」  「そうなんですか。でも面倒です。たいした金額じゃ ないし放っておこうかな。このままにしても問題はな いんですよね」  「処方箋の期限は発行日も含めて四日間ですから、そ れを過ぎればただの紙切れです。でも水尾さん、まだ 誤診と決まったわけではないですよ。もしかしたら是 沢先生の診断が正しくて、私の推察が間違っているか もしれません」  毒島さんはあくまでも冷静に言う。  「わかりました。その足立皮膚科に行ってみます。 色々ありがとうございます」  「お大事にどうぞ」毒島さんは表情を変えずに頭を下 げる。  用事は終わったが、そのまま帰るのはもったいない。 何か気の利いたことを言って気を引きたい。しかしう まい台詞は浮かばなかった。仕方なく、「ここだけの 話ですが、是沢院長ってヤブなんですか」と声をひそ めて質問した。  頭をあげた毒島さんは驚いたように爽太を見た。眼 鏡のレンズの向こうで、大きな瞳が爽太の顔をまじま じと見る。その子供みたいな真っすぐな眼差しに、逆 に爽太の方がどぎまぎした。  「すいません。なんでもありません」と言いかけた爽 太の耳に、「大きな声では言えませんが、ヤブという よリモリだと思います」と毒島さんのひそめた声が聞 こえてきた。  ヤブ医者より下手な医者には、土手医者や筍医者、 雀医者などがいるという。  薮にもなれていないのが上手医者で、薮の下に生え ているのが筍医者、薮を目指して飛んでいくのが雀医 者というわけだ。  落語のネタとして爽太はそれを知っていた。父親が 落語好きで、子供の頃によくテープをかけていたのを 聞いていたからだ。しかしモリ医者という言葉は初め て聞いた。モリとは森のことだろう。薮が繁殖を続け た末に森になったというわけか。  薬の知識はともかく、毒島さんのジョークのセンス は今ひとつのようだった。  それでも毒島さんの言った通り、足立皮膚科の先生 は親切で腕がよかった。爽太の申し出を受けて、すぐ に顕微鏡検査をしてくれた。きびきびした動きで言葉 遣いも丁寧だ。少し待つだけで結果が出た。やはり白 癬菌は発見されなかった。つまり足白癬ではないとい うことだ。結果を聞いた瞬間、複雑な気持ちになった。 水虫ではなくてよかったという気持ちと同時に、それ ならあの診察は何だったんだと怒りが湧いた。  診断は、アレルギーによる接触性皮膚炎。ステロイ ド外用薬が処方された。隣に調剤薬局があっだので、 そこに処方箋を出して薬をもらった。外用副腎皮質ホ ルモン剤と表示のあるチューブを渡された。そこの薬 剤師に言われた通りに薬を塗ると、翌日にはほとんど 痒みが治まった。こんなことなら、最初から足立皮膚 科に行けばよかったのだ。  三日もすると足の痒みは完全に治まった。ようやく 普段の日常が戻ったが、そうなってみるとあらためて 毒島さんのことが気になった。ヤブというよリモリで す、と囁くように言った声が、ふとしたはずみに耳の 中に蘇る。  今さらながら、足立皮膚科でもらった処方箋をどう めき薬局に持って行けばよかったと後悔した。夜勤明 けに加えて、クリニックを二軒はしごした疲れもあっ て、つい隣にあった調剤薬局に入ってしまったのだ。  あらためて毒島さんにお礼を言いたいと思ったが、 気恥ずかしさが先に立ち、なかなか足が向かなかった。  その翌週のことだった。爽太は街中で見覚えのある 女性を見かけた。夜勤明けで帰ろうとしているとき、 偶然コーヒーショップに入っていく姿を見かけたのだ。 誰だっけ、と目で追いかけて、そうだ、最初にどうめ き薬局に行ったときに応対してくれた薬剤師の女性だ と思い出した。名前はたしか方波見さんだ。爽太は とっさに同じ店に入っだ。さりげなく隣のテーブルに 席を取る。当然ながら、向こうは自分に気づいていな い。それとなく横目で様子を窺いながら、「あの、す いません」と話しかけた。  「あの、失礼ですが、どうめき薬局の方ですよね」  方波見さんはびっくりしたように爽太の顔を見た。  「一か月ほど前に、そちらで薬をもらった者です。水 −いや、足白癬の薬です。是沢クリニックの処方箋 でしたけどIあの、僕のことは覚えてないですよ ね」  「ごめんなさい。一日に何十枚もの処方箋を扱うの で」方波見さんは警戒した様子を隠そうとせずに頭を 下げる。  「いえ、それはいいんです。実はその後もあまりよく ならず、十日くらい前にまた同じ薬の処方箋をもらっ たんです。それでまたそちらの薬局に行ったんですが、 そのときに応対してくれたのが毒島さんという女性で、 実はそのときにI」  爽太は、その後にあったことを手短に話した。方波 見さんは硬い表情をしていたが、足立皮膚科で接触性 皮膚炎という診断をもらい、ステロイド外用薬を塗っ て完治したという話をすると、ほっとしたように、 「そうですか。それはよかったです」と笑顔を見せた。 クレームを言われるのかと警戒していたようだ。  「それであらためて毒島さんにお礼を言いたいのです が、いつ行ってもお忙しそうで」  こんなことを訊くのは何ですが、薬局の余裕がある 時間って何時頃でしようか、と爽太は尋ねた。  「迷惑にならない時間に、あらためてお礼を言いに伺 いたいのですが」  方波見さんは少し考え込んでから、「開店してすぐ か、閉店間際なら割と空いてます。あとは木曜日か土 曜日ですね。近くのクリニックがお休みなので、他の 曜日よりは余裕がありますよ」と返事をくれた。  土曜日はホテルが混むので、仕事を抜けるのは爽太 の方が無理だ。すると木曜日か。幸いなことに今日は 水曜日で翌日は夜勤だった。  「わかりました。じやあ、明日の九時頃に行ってみま す」  怪しい者ではないと証明するつもりで、爽太は自分 の名刺を差し出した。勤め先を見て、方波見さんの顔 が少し緩んだ。「ホテルーミネルヴアつて、あの坂の 上にある」  「そうです。フロントの仕事をしています」  「そうなんですか。……じやあ、馬場さんつてご存知 ですか。そちらにいらっしやると思うのですが」方波 見さんの口から意外な名前が出た。  「はい。います。馬場をご存知なんですか」  「前に地域の防災活動の会合でご一緒したことがあり ます。話が上手で、面白い方ですよね。そうですか。 馬場さんの同僚の方ですか」  それで安心したのか、方波見さんははじめて爽太の 顔を正面から見た。  「そういうことなら協力してもいいですよ」どこか意 味ありげな言い方をする。  「明日は私も一緒のシフトです。だから二人で話をす る場所と時間を提供してもいいです。毒島はあの通り、 愛想がまるでない娘ですが、真面目で、責任感が強く て、患者さんのことを何より第一に考えています。た だ薬以外のことには興味がなくて、テレビや映画も見 なければ、ファッションやグルメにもあまり関心がな いようです。もし水尾さんが彼女と親しくなりたいの であれば、なんでもいいからとにかく薬の話をするこ とをお勧めします」まるで見合いを仕切る仲人のよう な口ぶりだった。  「いや、そういうつもりじゃなく、ただお礼を言いた いだけですが」  下心を見透かされたような気になって、爽太は慌て て言い訳をした。すると方波見さんは困ったような顔 をした。「なんだ。そうなんですか。でもそういうこ となら、わざわざ来ていただかなくてもいいですよ。 お礼は毒島に伝言すれば済むことですから」  そう言われると返す言葉がない。  「いえ、あの……明日、お伺いします」と俯きながら 口にする。  「そうですか。よかったです」と方波見さんはにっこ りと微笑んだ。  「薬剤師の仕事って、患者さんに文句や無理難題を言 われることは多くても、お礼を言われることは滅多に ないんです。だから彼女にはたくさんお礼を言ってあ げてくださいね。顔には出しませんが、きっと心の中 では喜ぶだろうと思います」  方波見さんは時計を見ると、そろそろ時間なので、 とトレイをもって立ちあがる。  「あの、ありがとうございます」爽太は立ちあかって お礼を言った。  「明日お待ちしています」と方波見さんは店を出て 行った。  その夜、自宅に帰ると、「何か飲んでいる薬はあ る?」と爽太は母親に訊いた。  「なによ。薮から棒に」夕食の支度をしながら、母親 は怪訝な顔をする。  薬の話題を探そうと、帰り道にスマートフォンで検 索をしたけれど、出てくる話は専門的過ぎて爽太には とても理解できなかった。自分の経験を話題にしよう と思ったが、風邪薬以外の薬を飲んだ記憶もない。生 まれついての健康体で、こうなったら家族を頼るしか ないと考えたのだ。  「父さんは前に薬を飲んでたよね。あれって、どんな 薬だっけ」  「血圧の薬のこと? お酒を控えるようになってから は飲んでないわ」  「じやあ、母さんはどうなのさ。前によく動悸や息切 れがすると言ってたじやない」  「あれは更年期のせいだったみたい。一過性だったか ら、今は元気になったわよ」  「親戚でもいいから、持病があったり、薬を飲み続け ている人のことを教えてよ」  「そんなこと言われても、すぐに話せることはないわ よ」  フライパンに火を入れているせいか、母は台所から 出て来ようとはしない。仕方ない。半分だけ本当のこ とを打ち明けよう。  「実はさ、ホテルの近くにある調剤薬局の薬剤師と親 しくなったんだ。それでせっかくだから、薬のことで わからないことがあれば聞いておこうと思って」  「へえ。その入って男、女?」  「女だよ」  「あら、そうなの。でもすぐにどうこうはI」言い かけた母が言葉を切った。「ああ、そういえば」  「そういえば、何?」爽太は身を乗り出した。  「あっ、ごめん。なんでもないわ」  「なんだよ、それ。なんでもいいから教えてよ」   母親はあらためて考え込んだ。「……そゝつねえ。義 郎兄さんの具合が悪いということはあるけれど」  母は四人兄妹の三番目で、兄が二人と妹が一人いる。 義郎兄さんは長兄で、バブルのときに資産を増やし、 今は横浜で貸しビル業を営んでいるそうだった。  「義郎伯父さんつて、たしか一昨年再婚して、若い奥 さんをもらったんだよね」  「そうなのよ。奥さんが亡くなって時間が経って、子 供が独立したのをきっかけにね」  「具合が悪いって、どんな感じ?」  「去年、脳梗塞で倒れたの。血栓ができて、あわや半 身不随になるところだったのよ。奇跡的に後遺症はな かったんだけど、でも夏のはじめくらいから、また体 調が悪くなってたみたい。朝起きられないことがある とか言ってたわ」  前に法事で会ったときのことを思い出す。母とは年 が離れていて、もうすぐ七十に手が届こうかという年 齢のはずだった。  「とにかく病院が嫌いで、よほどのことがない限り行 こうとしないのよ。それでいてお酒が好きで、毎晩の ように飲み歩いていたでしょう。そりやあ、脳梗塞に もなるって話よね。さすがに倒れた後は控えているら しいけど。薬もきちんと飲んで、食事も毎日家で摂る ようにしたと言ってたわ」  「でも薬を飲んでいるのに、体調が悪くなるって変だ よね。診断が間違っているってとかはないの」自分の 経験をもとに爽太は言ってみる。  「大学病院で診てもらっているから大丈夫よ。でも春 先に電話で話したときは元気だったのよね。お嫁さん が体のことを心配して、毎食のように納豆と青汁が出 てくるのがたまらないって笑っていたけど」  奥さんはまだ三十代で、過去に水商売をやっていた 入らしい。再婚するときには財産目当てじやないかと いうことで、親族の間で一悶着あったという話も聞い ている。  「でもこうなってみると、再婚していてよかったとい う気がするわ。食事の支度はもちろんだけど、病院の 行き帰りも奥さんが毎回付き添ってくれているみたい。 診察が終わったら近くの喫茶店で待っていて、その間 に奥さんが薬をもらって来るとか言ってたわ」  病院で薬を出せばいいのに、どうしてわざわざ外の 薬局に行かなくちやいけないんだ、と義郎伯父さんが 毎回文句を言うため、奥さんが代わりに行くように なったらしい。  その気持ちはよくわかる。たまにしか病院に行かな い自分でも同じことを思うのだから、定期的に薬をも らいに行かなければいけない人にすればなおさらだろ 「その薬の名前ってわかるかな」 「ちらっと聞いたけど覚えてないわ。ワーなんとかっ て薬だと思うけど」  「ワーなんとかね」  その後も質問を重ねたが、母親の返事はどんどん曖 昧になっていく。爽太はその話を続けるのをあきらめ た。もう一度インターネットで調べてネタを探すしか なさそうだ。  「そういえば諷子はまだ帰ってないのかな」大学三年 の妹のことを訊いてみた。  「ゼミの飲み会ですって。遅くなるって言ってたわ よ」  妹にネタになることがないかと訊こうと思ったが、 そういうことなら仕方ない。父親も帰りが遅くなると いうので、母親と二人で食事を済ませると、リビング のサイドボードにある薬箱をこっそり覗いた。しかし 入っている薬といえば、総合感冒薬と解熱鎮痛剤、葛 根湯くらいのものだった。これといった持病もなく、 そこそこ健康な家族なのだった。  ならばと洗面所へ行ってみる。洗面台をあけると薬 用スカルプトニックとリアッププラスが目に入っだ。 父親の育毛剤だ。別の棚にはクレアラシルとプロアク テイブが置いてある。妹が使っているニキビの薬だろ う。医薬部外品と書かれた各種のクリームのチューブ は母親の化粧品だった。名前を検索すると、しわ改善 クリームにしみとりのクリームとわかった。うIん、 話題にするには弱すぎる。  やはり薬の話は難しすぎる。それなら基本に戻って 化学の話はどうだろう。高校のときに、元素記号をア ニメ風のギャラに擬人化した本を買ったことがある。 あそこにネタになるような話はないだろうか。自室に 戻って本棚を探すがどこにもない。そういえば大学受 験のときに諷子に貸したことを思い出す。返しても らった記憶がないから、きっとまだ妹が持っているの だろう。  妹の部屋に行く。勝手に入るのは後ろめたいが、本 を取るだけだと言い訳をした。目的の本は本棚の隅に 押し込まれていた。本を取って、部屋を出ようとした とき、屑籠に目が行った。空になった薬のシートが捨 ててある。持病はないし、体調が悪いという話も聞い てない。一体何を飲んでいるのだろう。空のシートを 拾ってみる。薬は二種類あるようだ。シートの裏には マルダクトンとアンジェと書いてある。  スマートフォンで検索するとマルダクトンは利尿剤 とわかった。高血圧の治療に使うものらしい。諷子は まだ二十一歳のはずだけど。父親の薬を飲み間違えた のかな。でもどういう理由でそんなことが起こるのだ。 首をかしげながら次にアンジェを検索した。  それを見た瞬間、爽太は自分の目を疑った。再度検 索したが結果は一緒だ。爽太は妹の部屋の屑籠を覗く という軽はずみな行動を深く悔いた。アンジェとは柢 用量の避妊薬だった。  翌日、約束の時間にどうめき薬局に行くために、爽 太は眠い目をこすりながら満員電車に乗った。ぎゆう ぎゆうづめの電車で潰されそうになりながら、頭の中 では同じ思いばかりがぐるぐるまわっだ。  妹がピルを飲んでいる。それは兄としては、いささ かショックなことだった。諷子が、まさかそんな薬を 飲んでいるなんて。決まった相手がいるならまだいい のだ。しかし諷子にそんな相手はいないはずだった。 最近はお互いに遠慮して、直接プライベートの話をす ることはないが、母親の口を通してそう聞いている。 しばらく前まで彼氏はいたが、夏前に別れたそうだっ た。それなのに、どうしてあんなものが屑籠に捨てて ある? 特定の恋人はいないが、不特定多数の男性と そういう関係があるということか。  学校にあがる前、爽太、爽太、と言いながら、どこ に行くにも後をついてきた諷子の姿が脳裏に浮かぶ。 おかっは頭につぶらな瞳。小学校にあがる年になって もまだ自転車に乗れず、泣きべそをかきながら練習し ていた姿が懐かしい。あの少しとろくて、可愛らし かった妹が、いまや家族に隠れてそんな薬を飲むよう になるなんて。  爽太は自分の軽率な行動を再び深く悔いた。家族と はいえ、勝手に屑箱を覗くような真似をするべきでは なかったのだ。  飯田橋駅で電車を降りると、外堀通りを歩き、神楽 坂をのぼった。路地を曲かってしばらく歩くとどうめ き薬局が見えてくる。店の前で白衣を着た方波見さん が待っていた。結局、話題になるような薬のネタは見 つからなかった。仕方ない。出たとこ勝負でなんとか しようと考えた。  「こっちに来て」方波見さんはビルの横に爽太を連れ て行く。  「お店じやないんですか」  「事務さんもいるし、落ち着かないでしょう。薬局の 休憩室は関係者しか入れないから、ビルの談話室を使 えるようにしておいたわ」  通用口から中に入って、通されたのは階段横の小さ なスペースだった。パーテーションで仕切られて、中 央には小さなテーブルと椅子が四脚置いてある。  「ここで待っていて。いま呼んでくるから」  方波見さんは言うと、すぐに毒島さんを連れてきた。 白衣にマスク、黒縁眼鏡で長い髪を後ろで一本に結ん でいる。仕事をしているときと同じ格好だ。どこか不 得要領な顔をしているのは、これから仕事というとき に呼ばれたせいか。  「こちら、水尾さん。さっき言った通り、あなたのア ドバイスで白癬感染症の誤診がわかって、感謝してい るそうよ」  「水尾です。本当にありがとうございます。言われた 通りに別の皮膚科で顕微鏡検査をしてもらいましたが、 白癬菌は見つかりませんでした。ステロイド外用薬を もらって、それを塗ったらすぐに治りました。あのと き正しいアドバイスをしてもらったお陰です。そうで なければ効かない薬をいまだに塗り続けていたかもし れません」  本当にありがとうございます、と頭を下げる。  「まあ、立ち話もなんだから、とりあえず座ったら。 ほら、患者さんじゃないんだからマスクくらい外しな さい」  方波見さんに促されて、毒島さんと正対して座る。  「私はお店に戻るわね。まだ患者さんは来ていないか ら、急いで戻らなくてもいいわよ。ゆっくり水尾さん の話を聞いてあげて」  方波見さんはそう言って姿を消した。マスクを外し た毒島さんの顔を見て、やはり風花で見た女性だと爽 太は思った。化粧気がなく、表情に乏しいせいで冷た い印象を受けるが、きちんと化粧をすればけっこう美 人なのかもしれないとも考える。  「あらためてお礼を言います」  爽太は自己紹介をしてから、「本当に助かりました。 ありがとうございます。なんとお礼を言っていいかわ かりません」と言葉を続けた。  「お礼なんていいです。私は自分の仕事をしただけで すから」  爽太は感情を込めて謝意を伝えたが、毒島さんはど こか当惑した表情だ。  「でも、よく誤診だって気づきましたね。そういう のって何かコツがあるんですか」 「コツとかありません。あのときに処方された薬は、 足白癬には間違いなく効果がある薬です。完治するの に時間はかかりますが、一か月塗ってほとんど効果が 出ないということはないはずです。水尾さんは、用法 用量を守っているのに、一向に患部に改善は見られな いとおっしやいました。そうであれば、医師の診断が 誤っていると考えるのは当然です」  「薬剤師の仕事って、薬を作って、渡すだけかと思っ ていました。でも違うんですね。そこまで考えている なんて驚きです」  「いえ、そんな。たいしたことじやありません」  爽太の言葉に毒島さんの表情がI瞬緩んだ。よし。 これを突破口に頑張ろう。爽太は勢い込んだが、しか しそこから先はさっぱりだった。美辞麗句を並べたて、 仕事ぶりを褒めそやしたが、そこからの毒島さんの反 応は薄かった。形ばかりの追従には無反応という態度 を返された。そのうち腕時計をちらちら見だした。十 五分か経過している。爽太は焦った。別の話題と思っ たが、興味を引くような話は思いつかない。  「すみませんが、そろそろ戻らなくてはI」  まずい。席を立たれたらそれで終わりだ。爽太は 焦って、「あの、向かいに風花って喫茶店があります よね」と言った。「ナポリタンが絶品ですよ。今年の 春に初めて行ったんですが、病みつきになってしばら く通ったりもしました。毒島さんは昼休みに行くこと はないですか」  「前に何度か行ったことはあります。でも外食自体が 好きではないので、最近はほとんど行くこともないで すね」  会話が途切れた。爽太はさらに焦った。この状況で ハーブティーの話題を出すのはさすがに強引すぎるだ ろう。やむをえない。こうなったら妹の話をするしか ない。  「あの、実は相談したいことがあるんです」と切り出 した。  「家族が飲んでいる薬のことなんですが、相談できる 人がいなくて困っているんです」  「どういうことですか」  毒島さんは浮かせかけた腰を下ろして爽太の顔を見 た。  「妹なんですが、こっそリピルを飲んでいるようで、 大学生なんですが、そういうのって見過ごしていいの か、意見をすればいいのか、それで悩んでいるところ なんです」  「ピルですか。医師が処方したものを飲んでいるなら、 はたでとやかく言うことはないと思いますが」  思い切って打ち明けたというのに、毒島さんの態度 は変わらない。そう言われて返す言葉がなくなった。 「問題ないということですか」  「目的にもよりますね。ピルは避妊だけではなく、 月経前症候群の治療に使われることもあります。妹さ んは月経前、情緒不安定になったり、体調を大きく崩 すことがありますか」  「えIと、よくわかりません」  妹の月経なんか気にしたこともない。  「飲んでいる薬の名前はわかりますか」  「アンジェという名前でした」  「第二世代の柢用量ピルですね。血栓などの副作用の 危険性は少ないと思います。他に併用している薬はあ りますか」  「はい。マルダクトンとかいう薬を飲んでいるようで す」  「マルダクトン……利尿薬ですね」毒島さんは少し考 え込んでから、納得したように頷いた。「なるほど。 そういうことでしたら、問題はまったくありません」  「問題がないって、どういうことですか」  「つかぬことをお聞きしますが、妹さんは尋常性ざ瘡 で悩まれているのではないですか」  「尋常性……冫・」いきなり奇怪な言葉を言われて戸 惑った。  「尋常性ざ瘡というのは、一般的に言うにきびのこと です」  にきびか。そういえば洗面台にはクレアラシルやプ ロアクティブが置いてあった。  「そうかもしれません。最近は仕事が忙しく、面と向 かって話す機会もないので、くわしいことはわかりま せんが」  「大人にきびと呼ばれる二十歳を超えてから出来た尋 常性ざ瘡の治療に、マルダクトンと柢用量ピルが使わ れることがあるんです」  にきびの形成には男性ホルモンが影響しているそう だ。だから基本的には男性の方がにきびを発疱しやす い。しかし男性ホルモンの量が過剰だったり、男性ホ ルモンの感受性が強い女性は成人後もにきびに悩まさ れることになる。  「マルダクトンとはカリウム保持性利尿薬に分類され る薬です。体内の水分を尿として排出させる作用があ ります。その際にカリウムを残して、ナトリウムを排 出するという特徴かあるんです。これを服用するとむ くみが解消されて血圧が下降します。よって高血圧の 治療に使用しているわけですが、他にもエストロゲン 様作用、および抗アンドロゲン作用もあるので、服用 すると男性ホルモンが抑制されて、ざ瘡の新生が阻止 されます。ただし副作用として、不正性器出血や月経 周期の異常などが生じるので、これを回避するため、 柢用量ピルを併用する治療法がとられるわけです」  毒島さんは何も見ずにすらすらと専門用語を口にす る。  「じやあ、妹はにきびの治療のために、その薬を?」  意外だった。ピルにそんな使い方があるなんて。薬 の効果の説明はよくわからない。しかし目的が避妊で はないということは理解できた。  「ただし匸冐、言い添えるなら、専門医の中にはスピ ロノラクトンの内服は推奨できないという意見もあり ます。治療が長期にわたるため、全身のホルモン動態 に影響を与える可能性があるという理由です」  将来的に副作用が出る可能性もあるということか。 いや、でも毒島さんが口にした薬の名前が違っていた ような。それを指摘すると、「スピロノラクトンとは マルダクトンの一般名です」と毒島さんは言った。   一般名というのは薬の主成分の名称で、それに対し て製薬会社がつけた商品名が別にあるとのことだった。 ジ子不リックなど別の名前の薬でも、一般名が同じな ら同じ効果が期待できるということらしい。  「しっかりした先生に治療を受けているならいいので すが、副作用のリスクをきちんと伝えずに、営利目的 で治療に誘導するお医者さんもいるようなので、それ については注意をした方がいいと思います」  「わかりました。教えてくれてありがとうございます。 折を見て今の話を母にして、あらためて妹に伝えても らうようにしてみます」  気持ちがすっと楽になった。とんだ早とちりだった。 妹は隠れて不埒なことをしているわけではなかったの だ。  「お医者さんの中には金儲け優先で、患者さんのこと は二の次に考える人もいますからね。何事にもお医者 さんの言いなりにならず、自分の健康状態は自分でき ちんと考える習慣をつけた方がいいと思います。お医 者さんの言葉を妄信して、こんなはずじゃなかったと 後で後悔するのは、他ならぬ自分ですから」  毒島さんの言葉は手厳しかった。きっと是沢院長の ことを言っているのだろう。  「わかりました。ヤブならぬモリ医者には気をつけま す」  毒島さんは虚をつかれたような顔をして、その直後 にぽっと頬を赤らめた。自分が前に言ったことを思い 出したのだ。やった、と思った。彼女の無表情を打ち 破って生の表情を見ることが出来た。この顔を見ただ けでも、今日、ここに来た甲斐がある。  毒島さんは慌てたように時計を見た。「じやあ、私 はこれで」とそそくさと立ち上がる。  「あの、毒島さんI」  食事に誘おうと思ったが、しかしいざとなると心が 挫けた。拒絶されたらどうしよう。そんな恐れに続く 言葉が出てこない。  「なんでしようか」  そう口にする毒島さんはすでに普段の顔に戻ってい る。ダメだ。言えない。  「もうひとつ相談があるんですがいいですか」そんな 台詞が口をつく。  「母方の伯父のことなんですが、脳梗塞を恣って、い  まはよくなったんですが、薬が合わないのか、最近調  子が悪いそうで、それってどう思われますか」  自分で言っておきながら、意味がよくわからない質 問だと思った。それに母は、伯父の体調が悪いと言っ たが、薬が合わないなんてことは言ってない。とりあ えず間をもたせるために口にした質問だ。  「薬は何を飲まれているのですか」  「はっきりわからないのですが、ワーなんとかという 薬です」  「ワーなんとかですか。脳梗塞を患っだのは間違いな いのですね」  「はい。そう聞いてます」  「それならたぶん、ワーサリンですね。血液を固まり にくくする薬です。血栓症の予防に使います。よく使 われているお薬なので、合う合わないはないと思いま すが」  あっさり言われて気が抜けた。どんな薬だろうかと いう話題で、しばらく時間を引き延ばせると思ったの に。  「薬が合わないと思うなら、主治医の先生に相談する ことをお勧めします。患者さんの状態を一番ご存知な のは主治医の先生です。患者さんの状態がわからない ことには、薬剤師としても下手なことは言えません」  正論中の正論だ。そう言われたら、これ以上は何も 言えない。  「そうですね。奥さんも旦那さんの体調を心配して、 食事のたびに納豆や青汁を出しているようですし、ま わりがごちやごちや言うことではないですね」しゅん としながら爽太は言った。  その瞬間、毒島さんの顔が強張った。 「今、なんと言いました?」 「えっ、いや、まわりがごちやごちや言うことではな いですね、と」  「その前です。食事のたびに何を出していると言いま したか」  「納豆や青汁です。両方とも健康にいい食品ですよ ね」  「奥さんがそれを毎食出しているわけですか」  毒島さんはこれまで見せたことがない真剣な顔をし た。眉間に深く太いしわが刻まれる。「それは大変気 になる話です。可能であれば、その方に連絡をして、 薬の名前がたしかにワーサリンなのか確認してもらえ ませんか」  「確認って、いまですか」  「はい、そうです」  「でも、もう仕事に戻らないといけないのでは」  時計の針は九時二十分を過ぎている。  「いまはこちらが優先です。その話を聞いた以上、 放っておくわけにはいきません。すぐにそれを確かめ てください」  そんなに重要なことなのか。  「わかりました。じやあ、母に電話して、伯父の奥さ んに訊いてもらいます」爽太はスマートフォンを取り 出した。  「待ってください。奥さんではなく、ご本人に訊くよ うにしてください」  「でも食事の支度や薬の管理については、奥さんが一 手に引き受けているという話ですが」  「そこが一番の問題です。服薬は自身の健康に深く関 係することですよ。それを家族とはいえ、人任せにし てどうします。自分がどんな薬を服用して、その薬に はどんな効果や副作用があるのか、それを知らないで 自身の健康を保てるはずがありません」  毒島さんは厳しい言葉を口にする。  「ざっくりした言い方ですが、血管内に血栓ができる のはビタミンKの働きによるものです。ワーサリンは ビタミンKに作用することで、血液凝固因子の生合成 を減らし、血液を固まりにくくする効果を持っていま す。しかし服用中、食事などで大量のビタミンKを摂 取すると、その効果が薄れてしまいます。そして納豆 や青汁にはビタミンKが多量に含まれています」  「じやあ、毎食、納豆や青汁を摂っていたら大変じや ないですか」  「そうです。薬の効果が著しく減退します」  「じやあ、それを奥さんにすぐに伝えないと」  「問題はそこです。ワーサリンを飲んでいる方は、納 豆や青汁の摂取を控える必要があるということは、薬 剤師には常識中の常識です。薬を渡す際には、必ずそ れを伝えているはずです。ましてや本人ではなく代理 の方が受けとるとなれば、それこそくどいほどに念押 しをしていると思われます」  首筋の毛がぞわっと逆立った。  「奥さんは知っていて、わざと納豆や青汁を出してい るということですか」  財産目当てじやないかと非難されたという話を思い 出す。まさかテレビドラマにあるような事件が、自分 の身近で起こるなんて。もしかして伯父さんの具合が 悪いというのはそのためか。「大変だ。すぐに伯父さ んに伝えなくちや」  慌てる爽太を、毒島さんが止めた。  「落ち着いてください。大学病院であれば、ワーサリ ンを処方するとき、止血作用を担う凝固因子の働きを 調べる検査をしているはずです。患者さんがビタミン Kを多く摂っていれば薬の効果は薄れます。その結果 を見て、医師は処方量を多くしていると思います。納 豆や青汁を多く摂ったからといって、すぐに命の危機 に至ることはありません。診察室に付き添っていない 奥さんは、旦那さんがそんな検査をしていることを知 らないのでしょう。薬剤師から、この薬を飲む際には 納豆や青汁を摂らないようにしてくださいと言われて、 それを思いついたのかもしれません」  「じやあ、奥さんのしていることに危険はないです か」  「危険はないということはありません。ワーサリンが 過剰投与されている状態ですので、今後色々な場面で 副作用が出る可能性があります。とにかく本人に確認 することが第一です。そのうえで主治医の先生に早急 に相談した方がいいと思います」  爽太はすぐに母親に電話をした。毒島さんから聞い た話をかいつまんで伝えたが、しかし母親は納得しな い。「いきなりそんなことを言われても」と戸惑った ような声を出すだけだ。  「大事なことなんだ。とにかく薬の名前といま飲んで いる量を確認してよ」  「それはいいけど、お嫁さんに内緒でってどういうこ とよ。まさかあの人が、義郎兄さんの命を狙っている とでも言いたいの」  「その可能性があるかもしれないんだよ」  「馬鹿言わないでよ。そんなドラマみたいな話がある わけないじやない」  「でも薬剤師さんが確かめてくれと言っているんだ よ」  「信じられないわ」  堂々巡りだ。すると毒島さんは指で自分の顔と爽太 のスマートフォンを交互に指さした。電話を代わると 言いたいようだ。「じやあ、薬剤師さんと代わるから、 直接話をしてよ」爽太はスマートフォンを毒島さんに 差し出した。  「はじめまして。どうめき薬局の毒島と言います。 −はい、薬剤師です」  毒島さんは的確に要点だけを繰り返した。オブラー トに包んではいるか、言うべきことははっきり言って いる。  「−そうです。ワーサリンとビタミンKの組合せは、 薬の効果を打ち消し、血栓ができるリスクを高めます。 至急、薬の名前と現在飲んでいる量を確認してくださ い」  母親はようやく事の重大さに気づいたようだ。慌て ている様子が毒島さんの口調で窺えた。すぐに義郎兄 さんに確認するということで電話を切った。  五分後、母親から電話があった。やはり薬はワーサ リンで間違いなかった。飲んでいる量を毒島さんに伝 えると、やはり普通より多いとわかった。  「よくよく聞いたら納豆や青汁が出ていたのは夏まで という話だったわ。病院の検査で薬が効いてないとい う結果が出て、お医者さんに納豆や青汁は絶対に摂っ てばダメだって怒られたんですって」  伯父さんがそれを伝えると、奥さんは平身低頭して 謝って、薬剤師から言われたことを誤解していたと言 い訳をしたそうだ。それ以来、食卓に納豆と青汁が出 ることはなくなった。母親が納豆や青汁がよく出ると いう話を聞いたのはその出来事の前だったのだ。  「でも、それなら処方されるワーサリンの量は減るは ずだよね。今でも普通より多い量が処方されているの はおかしいんじゃないのかな」  爽太が意見を言うと、「そうなのよ」と母親は同意 した。  「それで思ったんだけど、今でもあの女が、義郎兄さ んの食事にビタミンKを混ぜているんじゃないかしら。 向こうだって馬鹿じゃないわよ。おおっぴらにすれば 問題になるから、誰にも気づかれないようにこっそり やっているのよ」  受話器の向こうで母親は憤慨したように鼻を鳴らし た。すぐに親族会議を開いて善後策を練るという。そ れだけ言うと電話は切れた。かなり慌てているようで、 毒島さんにお礼を言うことも忘れている。  「すみません。色々とありがとうございます」  爽太が代わりに礼を言ったが、毒島さんは気にかけ ることもなかった。  「薬剤師として当然のことをしただけです」とだけ言  それではこれで、と立ち上がる。すでに九時四十分 を過ぎている。これ以上は引き留められない。お礼に 来たはずが、また世話になってしまった。  「本当にありがとうございます。このお礼はあらため てI」  爽太は深々と頭を下げた。結局、風花のことも訊け なかった。  一か月が経った。あの後、義郎さんをめぐってはI 騒ぎがあったそうだ。親族会議でその話を訊かれた義 郎さんは、納豆と青汁をやめても薬の量が減らないこ とをおかしいとは思っていたが、それを言えば奥さん が怒って出て行ってしまうかもしれないと思い、言え なかったと打ち明けたのだ。  皆に問い詰められた奥さんは、知らぬ存ぜぬを繰り 返したそうだが、言い逃れが出来ないと見るや、「も ういいわよ。私は何もしてないけど、ここまで疑われ たら、もう夫婦を続けていく意味なんかないわ」と捨 て台詞を残して出て行ったそうだ。  義郎さんは食事を改善して、ようやく体調も回復し てきたところだという。ワーサリンだけでそこまで体 調を崩すことはないから、こっそり他の薬も混ぜてい たのではないかと周囲は疑っているそうだ。警察にも 相談したが、事件とするには証拠がないと言われてあ きらめた。このままでは、また同じような性悪女に狙 われるのではないかという心配もあるために、息子夫 婦が義郎さんと同居することを決めたという。  「これで一安心ね」母親はほっと息をつく。  「まあ、とりあえずはよかったよね」爽太も頷いた。 父親は仕事で、妹もまだ帰っていなかった。  「それにしてもその薬剤師さんには感謝しなくちやね。 あのとき気づいていなければ、本当にあの女にいいよ うにされていたかもしれないわ。ところでその人、お いくつなの。あんたとはどういう関係の人なのよ」  母親はお茶をすすりながら、探るような視線を向け てきた。  「はっきりした年は知らないけれど、二十代後半くら いかな。勤め先の近くにある調剤薬局に勤めている人 だよ」爽太は正直に言った。  「もしかしてお付き合いをしているってこと?」  「違う。違う。そんなのじゃないよ」爽太は慌てて手 を振った。  「前に足が痒くなって、勤め先の近くにあるクリニッ クに行ったことがあったんだよ。そこで水虫という診 断を受けたけど、でも薬を塗っても、まるでよくなら なくてさ。そのときに色々と助言をもらっだのが、あ の人だったんだ。ちゃんとした皮膚科に行って、別の 薬をもらったらすぐに治ってさ。そのお礼を言いに 行ったとき、たまたまその話をしたら、それはおかし いということになったんだよ」  「本当かしら。なんか怪しい話だわね」  「嘘なんかつかないよ」  お茶をずずっとすすって、まあいいわ、と母親は呟 いた。「お世話になったお礼はしなくちやね。何か 買って送ろうかしら。食べ物は何か好きか、あんた 知っている?」  「知らないよ。でもたぶん受け取らないんじやないか な。薬剤師として当然のことをしただけだって、何度 も言ってたから」  爽太はそっけなく言った。これ以上、母親には関 わってほしくないという気持ちがあった。あらためて お礼に行くタイミングを考えてはいるか、仕事の忙し さもあり、なかなか訪ねることが出来ないでいるのだ。 それにどんな話をすれば、興味を持ってもらえるかが わからない。これではまた訪ねても、ありがとうござ いました、いえ、薬剤師として当然のことをしただけ です、という会話のやりとりで終わってしまう。  なにか話題はないだろうか。そんなことを考えてい る間にこれだけ時間が経ってしまったのだ。でも、も うこれ以上は引き延ばせない。そろそろなんとかしな いと、と焦りを感じていたところだった。  「じやあ、あんたに任せるわ」母親は財布から一万円 札を抜き出すと、爽太の前にぽんと置いた。  「なに? これ」  「あんたの知り合いなんでしよう。あんたがきちんと お礼をしなさいよ。若い女性が喜びそうな物を買って 送るもよし。落ち着いたレストランに食事に誘うもよ し。それは自分で考えなさい」母親はそれだけ言うと 立ち上がる。  「いいよ。こんなの」爽太は紙幣を押し返す。しかし 母親は取り合わない。  「世の中には礼儀つてものがあるのよ。あんたがしな いなら、私か直接お礼に行くけど、それでもいい の?」  ぐつ、と爽太は言葉を飲み込んだ。出来ればそれは やめてほしい。  「ならしっかりやりなさい。あんたももう二十五歳な んだから、ガールフレンドのI人もいないと恰好がつ かないでしように」  「なんだよ。それは関係ないだろう」爽太は焦って、 横を向く。  「諷子にも彼氏が出来たみたいだし、あんたもせいぜ い頑張りなさいよ」  「えっ、諷子に彼氏が出来だの?」  驚くと同時に、飲んでいた薬のことを思い出した。 そういえばその話を母親にまだしていなかった。義郎 伯父さんの騒ぎで忘れていたのだ。しかし爽太が口を 開くより早く、母親は言った。  「バイト先の先輩ですって。自分から告白してOKを もらったみたい。そのためにわざわざニキビの治療ま でしてたのよ。病院に行って薬をもらった甲斐があっ たって喜んでたわ。私も病院に付き添っだけど、ピル がニキビの治療に効くなんて知らなかったわ。お父さ んと爽太には絶対に言わないでって頼まれたから、今 まで黙っていたけどね」  だから、あんたも頑張りなさい、と母親は爽太の肩 をぽんと叩いた。  わかったよ、と爽太は頷くと、ありがとう、と机の 一万円札を手に取った。  I  フロントの仕事をするにあたってクレーム対応は不 可欠だ。  通された部屋が写真と違う、係の手際が悪い、掃除 が行き届いていない、食事が冷たい等、その内容は多 岐にわたるが、対応するに当たって最も厄介なのは、 部屋の私物がなくなったというクレームだろう。  水尾爽太がその囗に受けたクレームもその典型的な ヶIスと言えた。部屋に置いた子供の塗り薬がなく なったというのだ。クレームの主は植木美和子という 女性だった。新潟から小学五年生の娘・茜と来て、ツ インルームに泊まっていた。金曜と土曜の二連泊。土 曜日の午後三時過ぎに外出から戻って、それに気づい たとのことだった。  「申し訳ありません。すぐに確認に参ります」  爽太は受話器を置くと、すぐに三〇五号室に向かっ た。階段を上りながら自分がするべきことを考える。 クレーム対応の基本は、相手の話をよく聞いて、何を 訴え、何を望んでいるかを理解することだ。  しかし、だからといって、その訴えをすべて言葉通 りに聞くわけにもいかない。記憶違いや思い違いもあ るし、ゆゆしきは弁償金目当てに墟の訴えをする者も いるからだ。もっともクレームの内容からして、今回 はその可能性は柢そうだ。客室係が掃除中にどこかに 落としたか、間違えて捨てたということだろう。  時間からして、客室係はまだ控え室にいるはずだ。 収集した廃棄物を探して見つかればそれでよし。見つ からなくても薬を弁償すれば済むことだろう。  三〇五号室の前に着くと、息を整えてから扉をノツ クした。一呼吸あってドアがあいた。爽太は一礼して 部屋に足を踏み入れた。美和子は痩せて小柄な女性 だった。苛々した口調で、外出から戻ったら、あるは ずの塗り薬がなくなっている、とまくしたてた。  「出かけるときに間違いなく予備をここに置いたのよ。 それなのにさっき帰ったらなくなっていて、どこを探 しても見つからないのよ!・」  美和子はベッドの横に置かれたナイトテーブルを指 さした。五十センチ四方の正方形の天板には、化粧品 やお菓子、携帯電話、ゲーム機、充電器、延長コード などが置かれている。  「いま使っている分か空になったので、新しい物を使 おうとしたらどこにもないの。明日はディズニーラン ドに行く予定なのよ。薬がなければ心置きなく楽しむ ことができないわ」  「申し訳ありません」と爽太は頭を下げて、「とりあ えずもう一度探してみてもいいですか」と訊いた。  「いいけど、ないわよ。私も何度も探したもの」  それでも念のために確認した。私物があふれるナイ トテーブルの上には当然ない。天板に載った物が落ち ないように注意しながらナイトテーブルを横に動かし た。下には何も落ちてない。床に膝をついてベッドの 下ものぞき込む。だがそこにも薬らしき物はない。  サイドテーブルを戻して、あらためて部屋の様子を 見まわした。気になることがひとつある。ナイトテー ブルの足元に屑籠が置いてあるが、本来の置き位置は そこではない。清掃のマニュアルでは、壁際に置くこ ととなっている。多分、こちらが使いやすいと考えて、 美和子か茜が動かしたのだろう。中をのぞくと空だっ た。朝もこの場所に移動していたなら、何かの拍子に そこに落ちて、気づかないまま廃棄物として回収され た可能性がありそうだ。  「なくなっだのはどんな薬ですか」  「これよ」と美和子はA4サイズの紙を突き出した。  調剤薬局で出される薬剤情報提供文書だ。以前、接 触性皮膚炎を恣って塗り薬をもらったときに、同じ紙 をもらった記憶がある。見た瞬間、まずいな、と思っ た。処方薬を購入するには処方箋が必要であり、処方 箋をもらうには医師の診察が必要になるからだ。  説明文書にはチューブに入っだ塗り薬の写真が載っ ている。薬の名前はリンドロンDP軟膏となっていた。 副腎皮質ホルモン外用剤と書いてある。爽太がもらっ た薬と同じステロイド外用薬のようだった。  「子供のアトピー性皮膚炎の薬なのよ。あれがないと 困るの。子供が体中を掻き毟って、あちこち掻き壊し たようになっちやうのよ」  美和子の苛立ちが募っていることが窺えた。茜は ベッドの上で膝を抱えて、不安そうに壁の方に目を やっている。首の付け根あたりが赤くなっていて、と ころどころ傷になり、血が滲んでいるのが痛々しかっ た。  爽太の視線に気がつくと、患部を隠すようにブラン ケットを頭からかぶる。  客室係に確認する旨を告げて部屋を出る。ドアを閉 める間際、ブランケットから頭を出した茜が猫のよう に丸めた手で、首の付け根をこすっている様子がちら りと見えた。患部を掻き壊さないための知恵なのだろ う。自らも痒みに悩まされた経験があるだけに、そう せざるを得ない気持ちはよくわかった。  いや、自分はまだましだ。ステロイド外用薬を塗っ て、すぐに痒みは治まっだのだから。しかしアトピー 性皮膚炎はそうではない。長期にわたって激しい痒み が続くという話を聞いたことがある。あの子にとって、 痒みを抑える薬はとても大事な物なのだ。なくなった 薬を見つけなければ、あの母娘のせっかくの東京旅行 が台なしになる。  階段を二段飛ばしに駆けおりて、爽太は一階にある 客室係の控え室に向かった。  客室係は社員二人とパート十人のすべてが女性とい う構成だ。幸いなことに控え室には本日勤務のほぼ全 員が残っていた。まずは責任者である主任の中野さん に事情を話す。年齢は四十代後半。その仕事ぶりは優 秀で、他の部署の人間からも一目置かれている存在だ。 ただし部下には厳しく、人ってくるパートさんの半数 は、一週間と経たずに辞めていく。初心者にも容赦な くダメ出しをして、妥協することなくベストの仕事を 要求するからだ。三〇五号室から受けたクレームの話 をすると、中野さんの顔はみるみるうちに強張った。  「三〇五号の担当は誰?」  同じ社員の南さんに厳しい声を出す。南さんは四十 半ばというところ。大人しく、要領が悪いところがあ るせいか、いつも中野さんに怒られている印象がある。  「えIと、沢辺さんです」南さんはシフト表を見なが ら、上ずった声を出す。  「沢辺さんはどこ? 帰っだの?」  「はい。早帰りしました。入院したお友達のお見舞い に行くということで」  「まったくこんなときにI」中野さんは聞こえよが しに舌打ちをする。  「すぐに電話をかけて事情を訊いて。部屋に薬がな かったかを確認してちょうだい」  南さんが電話をかけたが、すぐに受話器から耳を離 して首をふった。  「電源が切れてます」  中野さんは舌打ちをして、「こんなことがあるかも しれないから、仕事が終わった後も電話はつながるよ うにしておいてって、いつもくどいほどに言ってる じやない。本当に責任感のない人ね。想像力がないか ら、そんな非常識なことが出来るのよ」と声を上げる。 さらに南さんに向かって、「あなたもあなたよ。教育 が悪いからこういうことになるんじやないの。もっと しっかりしてちょうだいよ’・」と鋭く言った。  南さんは何も言えずに下を向き、パートさんたちも 一様に押し黙る。放っておけば中野さんの小言と嫌味 はまだ続きそうだった。  「沢辺さんのことより、いまどうすればいいかを考え ましようよ」  薬が屑籠に落ちて、気づかないまま回収されてし まった可能性を、爽太は中野さんに説明した。客室か ら出たゴミはフロアごとに分けられて、翌朝の同収ま でホテルの裏手にあるゴミ置き場に保管される。厨房 の生ゴミとは置き場所も分けてあるから、袋をあけて 中を確認することは可能だった。  「そういうことなら、探せば見つかるかもしれないわ ね。すぐに調べてきてくれる?」中野さんは当然のよ うに南さんに指示を出す。  「これくらいのチューブに入った軟膏です。名前はリ ンドロンDP軟膏。アトピーに対処するためのステロ イド外用薬です」爽太は指でチューブの大きさを示し た。  「わかりました。行ってきます」  「いや、待ってください。僕も行きます。二人で探し た方が早いです」  部屋を出て行こうとする南さんに声をかける。しか し一緒に控え室を出ようとした爽太を中野さんが呼び 止めた。  「やめてください。これは客室係の問題です。フロン トの人に余計な手間を取らせるわけにはいきません」  「でも部屋でお客様が待っているんです。なるべく早 く解決したいので、僕に出来ることは協力しますけ ど」  爽太が異議をとなえると、中野さんはため息をつい て、その場に居並ぶパートさんたちの顔を見渡した。 「フロントの人がこんなことを言っているけど、あな たたちはどう思う? こんなことになっだのは、もと はと言えば沢辺さんのせいなのよ。仲間のミスはみん なのミス、誰かがミスをしたらそれをカバーするよう にしましようって、いつも私は言っているわよね。こ んなときこそ皆で協力して、仲間のミスをカバーする べきだと思わない?」  中野さんの言葉にパートさんたちは顔を見合わせも じもじしている。白髪の女性が、「あの、今日は娘と 孫が遊びに来るので、そろそろ帰らなくてはいけない んですけど」と言いづらそうに口を開く。  「用事があれば別にいいのよ。これは業務命令じゃな くてお願いだから。無理に残れと言っているわけじゃ ないわ。仲間のミスをカバーしたいと思っている人を 募っているだけの話なの」中野さんは嫌味っぽい口調 で言い放つ。まだ沢辺さんがミスをしたと決まったわ けではないが、ここで口をはさむと面倒なことになり そうだ。我慢して黙っていると、「あの、ワタシ、や ります」と五十歳くらいの女性が手をあげた。外国人 らしく、言葉のアクセントが微妙に違う。  「あら、リンさん、ありがとう。他の人はどうかし ら」  お互いに顔を見合わせながら、さらに二人ほどが手 をあげた。  「山本さんと鈴木さんね。じやあ、ちやっちやっと やっちやって。まず三階のゴミを調べて、そこになけ れば念のために二階と四階のゴミも調べてね。はい、 じやあ、他の人は帰ってもいいわよ。次回、同じこと があればまた協力してちょうだいね」  中野さんがパンパンと手を叩き、リンさんたちはそ の場に荷物を置いて、南さんに続いて控え室を出て 行った。他のパートさんたちも「すみません。お先に 失礼します」と声を出して控え室を出て行った。後に は爽太と中野さんが残された。控え室は明かり取りの 窓があるだけの倉庫を兼ねた部屋だった。ベッドメイ クに使うリネンや、シャンプーやボディソープといっ たサニタリイ用品を収めた箱が、スチール製の棚に整 然と詰め込まれている。  中野さんは備え付けの冷蔵庫をあけると、私物らし いステンレス製の水筒を取り出した。中身を紙コップ に注ぎながら、「ここで待つなら、空いている椅子に 座ってくださって結構ですよ」と爽太に言った。  「いや。平気です」  なんとなく居心地が悪くて、爽太は勧めを斷っだ。 中野さんは悪い人ではないが、口調が強く、仕事に妥 協がないことから、色々と問題のある人たった。仏頂 面で、ぶっきらぼうなところも、人に敬遠される理由 になっている。過去にはパートさんが苦情を書き連ね た投書を本部に送りつけたこともあったという。  飲み物を注いだ紙コップは二つあった。中野さんは ひとつを、「どうぞ」と爽太に差し出した。斷るわけ にもいかず、「いただきます」と手を伸ばして受け 取った。中身は薄い茶色の液体だ。麦茶かと思ったが、 口をつけると清涼感のある爽やかな味が広かった。  「「Iブティーですか」  「ラベンダーとカモミールのブレンドよ。水出しして 作っだの」中野さんは紙コップに口をつけながら返事 をする。  「どちらもイライラを鎮めて、不安な気持ちを取り払 う作用があるものですね」  爽太が何気なく言うと、「あら、よく知っているわ ね」と中野さんが意外そうな顔をした。  「男の人で「Iブティーに詳しいなんて珍しいわ」  「いや、詳しくはないですよ」爽太は慌てて首をふっ た。  「最近、薬草関係の本を読んだもので、ちょっと頭に 入っていただけです」  毒島さんを食事に誘うときに備えて読んだものだっ た。薬に関する本は難しいので、とりあえず読みやす い本を選んだのだ。  「「Iブティーがお好きなんですか」爽太は訊いてみ た。  「ええ、好きよ。健康にいいもの。人工甘味料や砂糖 がたっぷり入っだ炭酸飲料やジュースの類いは口にし ないようにしているの。これからの時代、自分の健康 は自分で守ることが必要ですからね」  中野さんは飲み終えた紙コップを屑籠に捨てると、 水筒を冷蔵庫にしまった。  「水筒を冷蔵庫にしまうんですか」  不思議に思って爽太は訊いた。ステンレス製の水筒 は、それ自体に保冷機能があるはずだけど。  「そのへんに置いておくと、悪戯されるかもしれない でしょう。どこの職場もそうだけど、大人しそうな顔 をしていても、性格のねじ曲がった人がいるものなの よ」  事務机の前に座り、キャビネットから書類を取り出 しながら中野さんは答えた。なんだか含みがある言い 方たった。どういうことだろう。しかしそれを質問す るより早く、「なくなった薬はお子さんが使うもので すか」と中野さんが訊いてきた。  「ええ、そうです。お子さんがアトピー性皮膚炎らし いので」  どうしても見つけてほしいと言われました、と言い かけて、慌てて言葉を飲み込んだ。聞きようによって は客室係を責めているようにも取れる。誤解されるよ うな言葉は口にしない方がいいだろう。  「とにかく見つかることを祈るばかりです」  無難な言葉を言い添える。しかし中野さんは意外な ことを言い出した。  「子供がアトピー性皮膚炎にかかる原因って、母親に 根本的な原因があるらしいですよ。妊娠中の食生活が 乱れていると、その影響がアトピーという形で子供に 出ると、何かの本で読んだことがあります。妊娠中の 母親は食生活を含めて、しっかり自己管理をする必要 があるのに、最近の若い女性ときたら飲酒はするわ、 喫煙はするわ、中にはダイエットをする妊婦もいるそ うじやないですか。そんな風だから子供がアトピー性 皮膚炎にかかったりするんですよ」  子供がアトピー性皮膚炎になっだのは、すべて母親 のせいだというような口ぶりだ。さすがにそれには頷 くわけにいかない。  「それは言いすぎだと思いますが」と言い返した。  「いいえ。これは間違いのないことです。アトピーに 隕っだことではないですが、病気になるのは不規則な 生活を送っていたり、バランスの取れた食事を摂って いないせいですよ。その証拠にこの私を見てください。 規則正しい生活を送って、体に悪い食品や飲み物を遠 ざけているせいで、この二十年、風邪ひとつひいたこ とはありません」中野さんは自慢げに言って胸を張る。  「健康に気を配った生活を送っていれば、病気にかか ることはありません。認知症だって、癌だって日頃の 不摂生の影響でかかる病気ですよ。まっとうな生活を 送っていれば、絶対にそんな病気にはかかりません」  病気は、自己管理が出来ていないだらしない人間が かかるものだと言いたいようだ。とんでもない暴論だ。 それで健康が保てるなら病気で苦しむ人がもっと少な い世界があるはずだ。しかし現実は違う。どんなに健 康に気を使っても、病気にかかるときはかかるのだ。  しかしそれを言うと、中野さんはふん、と鼻を鳴ら して、「あなたは若いから知らないだけよ。ほとんど の病気はその気になれば防ぐことが出来るのよ」と主 張する。  爽太は驚いた。中野さんは、まわリヘの当たりは強 いけれど、内面はしっかりしていて、常識的な人だと 思っていた。しかし実際は違うようだった。偏った考 えを心に抱いて、それを意固地に言い張って、他人に 共感を強要するところがあるらしい。部下である南さ んやパートの人たちの気苦労が思いやられた。  「どんなに節制していたって、病気はかかるときには かかるものです。中野さんがかかったことがないと言 い張るなら、それは節制のお陰ではなく、ただ運がよ かったというだけのことだと思います」  爽太が強い口調で言うと、中野さんが不満そうに眉 を吊り上げた。  「運がよかっただけって、あなたに何かわかるの よ!・」  一触即発になったところに南さんたちが戻ってきた。  「二階から四階までのゴミを調べました。でもお探し の薬は見つかりませんでした」  二人の状態には気づかないまま、南さんは悄然とう なだれた。  「そうですか」爽太は軽く息をついた。  「困ったわね。沢辺さんとも連絡が取れないし。…… どうしますか」  中野さんは皮肉めいた口調で爽太に訊いた。怒る気 にもなれず、「仕方ないです。探したけれどなかった という事実をお客様に伝えます」と爽太は言った。  その後どうするかは、あらためて考えることになる だろう。  「探していただいて、ありがとうございます」南さん とリンさんたちに礼を言う。  「とんでもないです。お力になれずに申し訳ありませ ん」と南さん。  社員の二人は五時までは控え室にいるそうだ。この 後も沢辺さんに電話をかけて薬がなかったかを訊いて みる、と南さんは言ってくれた。  よろしくお願いします、と頭を下げて爽太は控え室 を出た。  さてどうしよう。美和子が嘘を言っているとも思え ないから、ステロイド外用薬が、滞在中の部屋からな くなっだのは事実だろう。見つからなければ、こちら で弁償するしかないが、問題は一般薬ではないという ことだ。土曜日のこの時間、診察してくれる皮膚科は 近くにあるだろうか。爽太は困惑しながら歩き出した。  バックヤードで自分の鞄からスマートフォンを取り 出した。  フロントを覗くと、団体客が到着したようで、てん やわんやの状態になっている。経験豊富な馬場さんに、 どう対応すればいいかのアドバイスをもらいたいとこ ろだが、相談している余裕はなさそうだ。仕方ない。 先に美和子と話をしてみよう。  部屋に向かう途中、スマートフォンで近くの皮膚科 を検索した。足立皮膚科があいていればと思ったが、 生憎、土曜日は午前のみの診療だった。ならばと是沢 クリニックのウェブサイトを見る。院長に誤診をされ た因縁のクリニックだが、薬を処方してもらうだけだ し、今回は目をつぶろうと考えたのだ。  だが上日祝日は休診となっている。新宿や渋谷と いった繁華街の周辺まで行かないと、この時間に診察 している皮膚科はないようだ。となるとタクシーで 行っても二十分以上はかかるだろう。ベッドの上で膝 を抱えていた茜の姿が頭に浮かぶ。余計な移動で疲れ させたくはないが、他に選べる方法はない。  三〇五号室に行くと、「こちらの部屋から出た廃棄 物をすべて確認しましたが、お探しの薬は見つかりま せんでした」と正直に告げた。美和子はむっつりした 顔で爽太をにらんだ。  「じやあ、どうしろって言うんです。薬なしで、明日 一日を過ごせと言うんですか。いえ、明日だけのこと じやないですよ。今は落ち着いていますが、薬を塗ら なければ、夜にまた痒みが出るかもしれないんです。 ここまで朝昼晩と、一日も欠かさずに薬を塗り続けた ことで、なんとか症状を抑えてきたんです。それが薬 を塗らないことで、また症状が悪化したら、ホテルは どう責任を取るって言うんですI’・」  「申し訳ありません」  爽太は丁寧に頭を下げてから、先ほどの考えを口に した。今の時間でも診てもらえるクリニックに行って、 そこで処方箋をもらうというのはどうだろうか、と。  しかし美和子はその提案をあっさり却下した。茜が 疲れて熱っぽいというのだ。  「もう外出はしたくありません。とにかくなくなった 薬を探してください。それさえ見つかれば何も文句は ありません。ずっと楽しみにしていた東京旅行です。 娘には心置きなく楽しませてやりたいんです」  廃棄物の中を探してもなかったんです。もう探す場 所はありません。  そう言いたい気持ちを飲み込んで、「わかりました。 少し時間をください」と爽太は言った。とりあえず馬 場さんにどうすればいいかを相談しよう。事情が事情 なだけに、薬の弁償に加えて、何らかのお詫びをする 必要がありそうだ。部屋代を割り引くか、夕食を無償 で提供するか。それ以上のこととなれば、支配人の判 断を仰ぐ必要があるわけだが。  そんなことを考えながら爽太はベッドに目をやった。 茜はブランケットにくるまり横になっている。その頬 が赤く見えるのは、熱が出ているせいなのか。傍らに はディズニーランドのガイドブックが置いてある。赤 や青の色とりどりの付箋が何十か所にもつけられてい るのが目に入る。あらためてディズニーランドに行く のを楽しみにしていたんだな、と考える。  美和子の薬指に指輪はなかった。家庭の事情を詮索 するつもりはないが、東京に遊びに来るのだってそれ なりにお金はかかるだろう。部屋から薬がなくなった。 理由がどうあれそれはホテルの失態だ。そしてこの失 態はホテル代の割引や夕食の無償提供で相殺できるこ とじゃない。  「心当たりを確認しますので、もう少しお待ちくださ い」  爽太は心の片隅に思い浮かんだアイデアにすがって、 部屋を出るとスマートフォンを取り出した。どうめき 薬局のウェブサイトを検索して、営業時間をチェック する。土曜日は午後四時までの営業となっている。現 在の時刻は午後三時四十五分。代表番号に発信したが 通話中だった。二度、三度と試すが、状況は変わらな い。そうしているうちに時計の針は三時五十分を過ぎ ていた。このままでは電話が通じないまま、薬局は閉 まってしまう。それはまずい。ひとまずフロントに戻 ることにした。そろそろ落ち着いている頃かと思った が、ロビーにはいまだ人があふれてハタハタしている。  爽太は馬場さんを捕まえて、手短に事情を話した。  「薬がないと困るというので、調剤薬局で売ってもら えないか訊いてみたいんですが」  「わかった。こっちはこの通りだから、そっちの件は 任せるよ」  「電話が通じないので、とりあえず薬局に行ってきま す」  「前に話したと思うけど、クレーム対応の基本は〈北 風と太陽〉だぞ。それをくれぐれも忘れるな」  北風と太陽とは、クレームを言うお客さんに正面か ら立ち向かっても問題は解決しない、お客さんが何を 訴えたいのかを理解して、どうすれば納得してもらえ るかを一緒に考えることがクレーム解決のための一番 の方法になる、という馬場さんの教えだった。  「はい。わかっています」  時刻は午後三時五十五分。爽太はホテルの通用口を 出ると全力で駆け出した。路地を抜けて、坂道を走り、 四時少し前にどうめき薬局についた。ちょうど白衣を 着た薬剤師が外に出てきて、看板をしまおうとしてい るところだった。  「すいません」息を切らしながら声をかける。顔をあ げた女性の顔には見覚えがある。前に来たときに見か けたゆるふわセミロングの女性だった。  「ごめんなさい。おしまいなんですが」小首をかしげ て可愛らしい声を出す。  「いえ、患者じゃないんです。毒島さんはいらっしゃ いますか」  「お知り合いですか。いますよ。中へどうぞ」  刑部という名札をつけたその薬剤師は、にっこり 笑ってドアをあけてくれた。  「毒島さん、お客様ですよ」  パソコンに向き合っていた毒島さんが顔をあげた。  「すみません。水尾です。お願いがあって来たんです がI」  爽太は恐縮しながら、ここまで来た事情を説明した。  「−それでその薬を売っていただけないかと思って 来たわけなんですが」  「なくなったのはなんという薬ですか」毒島さんはマ スクを外してから質問した。  「これです」スマートフォンで検索しておいた薬の写 真を見せる。  「リンドロンDP軟膏。ステロイドですね」と毒島さ ん。  「はい。お子さんがアトピー性皮膚炎らしいんです」  母娘ともども困っているのでなんとかしてやりたい、 と同情を乞うように頭を下げる。しかし毒島さんは表 情を変えることなく、  「残念ですが、これは処方箋がないとお出し出来ませ ん」と口にした。  「そこをなんとかなりませんか」  「残念ですがダメです。どんな事情があろうと、処方 箋が必要な薬をそのまま出すわけにはいきません」  「あの、毒島さん」横で聞いていたゆるふわセミロン グが口をはさんだ。  「使用期限切れが近くて、廃棄処分にする予定の在庫 に、その薬があったと思いますけど」  刑部さんはカウンターを通って調剤室と書かれた部 屋に入り、すぐに薬のチューブを持って出てきた。カ ウンターに置かれた薬のチューブには、たしかにリン ドロンDP軟膏と書かれている。  「期限は今月末ですから、すぐに使えば問題ないと思 います」  「いいんですか」と言いかけた爽太の声を、「刑部さ んI」とたしなめる声が遮った。  「薬剤師として、そういう行動は間違っています。廃 棄処分にするための薬を第三者に渡すなんてことが許 されるはずはありません」  「でも、この人、困ってますよ」刑部さんは爽太の顔 をちらと見る。  「それに、ディズニーランドを楽しみにしている女の 子も可哀想ですし」  刑部さんが天使に見える。しかし毒島さんは動じる ことなく、「薬剤師という仕事が医療の担い手の一員 である以上、一時の感情で流されるべきではありませ ん。どんなときでもルールは守らなければいけませ ん」と毅然とした声で言う。  「そんな固いことを言わないでもいいじやないですか。 薬剤師倫理規定の第二条には、良心と愛情をもって職 能の発揮に努める、と書いてもありますし」  「それは間違った良心と愛情です。だいたい今の話が どこまで本当かも、私たちにはわからないんですか ら」  「嘘じやないです。本当に困っている女の子がいるん です」  爽太が言うと、毒島さんはわかっていますというよ うに頷いた。  「水尾さんの話を疑っているわけじやありません。た だ困っている人がいるから、なんとかしてほしいと言 われても、軽々に薬を渡すことは出来ないんです。ス テロイドくらいで固いことを言うなと思うかもしれま せんが、これが睡眠導入剤や向精神薬ならどうなりま す? 薬がないと眠れないし気分が落ち着かない、こ れではせっかくの旅行が台なしだ。そう言われても、 処方箋もないままそんな薬を出すことは出来ません」  毒島さんは言うと、カウンターに置かれたリンドロ ンDP軟膏を手に取った。  「そういう事情ですので、これをお渡しするわけには いきません。医師の診察を受けて、処方箋をもらって ください。それが私に出来る唯一のアドバイスです」  がっかりしたが、その気持ちを出さないように努力 した。斷られたからといって毒島さんを恨むのは筋違 いだ。  「わかりました。我儘を言ってすみません」唇を噛み ながら頭を下げた。  「念のために訊きますが、その女の子の症状はかなり ひどいのですか」毒島さんが言った。「リンドロンD P軟膏といえばステロイド外用薬で五ランクあるうち、 二番目に強いH群に該当するものですが」  「はっきりとわかりませんが、肌の一部が赤く爛れて、 血が滲んでいるように見えました。今は平気そうです が、薬を塗らないと痒みが強くなるとも言ってます」  「そうですか。せっかくですから、ひとつアドバイス があります」  毒島さんは眉間にしわを作りながら。  「病院やクリニックを探すのに皮膚科にこだわる必要 はありません。医師であれば基本的には、どんな処方 箋でも書くことは可能です。土曜の夕方となれば、診 療しているところは隕られてくるでしょう。内科や外 科の医師であっても、事情を話せば処方箋を書いてく れるかもしれません」  毒島さんの言葉に光明が見えた。  「それなら病院を探す幅も広がります。教えてくれて ありがとうございます」  「とはいえ、基本的に医師は自分の専門外の処方箋を 書くのは嫌がります。後になって問題が起きれば、責 任問題になりかねないからです。それを念頭に入れて、 まずは電話で訊くようにしてください」  光明は雲に閉ざされた。是沢クリニックの院長の横 柄で居丈高な態度と物言いを思い出す。同じような態 度の医者に、そんなことが出来るか、と怒鳴られたら たまらない。やはり簡単にいくことではなさそうだ。  「わかりました。色々とありがとうございます」  爽太は頭を下げると、どうめき薬局を出た。戻って 美和子に話をするのは気が重かった。心当たりがあり ますと言っておきながら、結局は空手で帰る羽目に なったのだ。前よりもひどく怒られるかもしれないし、 罵られるかもしれない。しかし逃げるわけにはいかな い。茜を皮膚科に連れていくしか、薬を手に入れる方 法はないのなら、それを正直に告げることが自分の務 めなのだと考えた。 「−水尾さん」  薬局を出て歩きかけたところで声をかけられた。振 り返ると毒島さんが入口から顔を覗かせている。  「よろしければ、ご一緒しましようか。仕事柄、アト ピー性皮膚炎のお子さんの症状はある程度はわかりま す。前にアレルギー外来の病院の門前薬局で仕事をし ていた経験もありますので、アドバイスくらいなら出 来るかもしれません」  「いいんですか。でもお仕事があるのでは」爽太は口 角があがりそうになるのをこらえて言った。  「もう終わりました。支度をするので少し待ってもら えますか」  毒島さんは薬局の中に姿を消した。数分後、黒い ニットのセーターにゆったりした辛子色のパンツとい う格好で姿を現す。その服装にあらためて風花のこと を思い出す。  「あの、前に風花で見かけたことがあるんですが、毒 島さんは僕のことを覚えていないですよね」  肩を並べて歩きながら、そんな風に話しかけてみた。 「何のことですか」毒島さんは怪訝な顔をする。  爽太は、妊娠して退職する同僚にセントジョーンズ ワードの(Iブティーを贈ろうとした二人の女性の話 をした。  「あのとき、僕も隣の席にいたんです。まさか(Iブ ティーにそんな危険があるとは知りませんでした。そ んなことまで知っているなんて、薬剤師ってすごいん ですね」  「(Iプは人に癒やしや安らぎを与えてくれますが、 多量に用いたり、医薬品と併用すると健康に悪影響を 与えることがあります。薬剤師ならその程度の知識を 持つことは当然です」と毒島さんは当たり前のように 言う。  会話が途切れた。会話のキャッチボールが続かない。 沈黙が重い。えIと、話題、話題。爽太ほとりあえず 頭に浮かんだことを口にした。  「でもステロイドつてすごいですね。塗ればアレル ギー皮膚炎やアトピー性皮膚炎によく効いて、飲めば 筋肉増強につながるなんて、ある意味最強の薬と言え るんじやないですか」  「ステロイドを飲んでも筋肉増強にはつながりません よ」毒島さんは足を止めることなく言葉を返す。  「でもメジャーリーグの選手やオリンピックの出場選 手が、ステロイドを飲んで出場停止処分を受けたって 話を聞きますよ」  「筋肉増強剤として使われるのはアナボリックーステ ロイドであって、調剤薬局で処方されるステロイド外 用薬とは別物です」  「えっ、そうなんですか。てっきり同じ種類の薬だと 思っていました」爽太は驚いた。  「ステロイドというのは、共通した基本構造をもつ化 合物の総称であって、特定の薬剤を指した言葉ではあ りません。ステロイド外用薬は糖質コルチコイド成分 の副腎皮質ホルモンからなるステロイド。対してアナ ボリックーステロイドは、男性ホルモンであるテスト ステロンの効力を改善するために合成されたステロイ ドです」  意味はまるでわからなかったが、それを言ったら会 話が終わる。  「そうだったんですか。知りませんでした。でも効果 がある分、副作用も強いんですよね。筋肉増強として 使った場合は、死に至ることもあると聞いたことがあ ります」と聞き齧った知識で言葉を返した。  すると毒島さんはため息をついて、あのですね、と 声を少し大きくした。  「ステロイドには副作用があり、ときとして重大な症 状を引き起こすことがあるというのは事実です。ただ しその内容については、多くの場合、誇張されていて、 誤解されています。筋肉増強のために医師の指導もな いままに服用した際には死に至ることもありますし、 治療のために内服薬や点滴として使用したときも、副 作用が発疱するケースはあります。しかし医師の管理 監督下で、適正に使用すれば命にかかわる危険はあり ません。外用薬の場合も、にきび、多毛、皮膚炎など の副作用がありますが、あくまでも塗布された部分に 限定されて、さらに使用を中止すればほとんどが治り ます」  他に塗布した部分の皮膚が薄くなったり、毛細血管 が浮き出てくるという副作用もあるそうだが、それも 強い薬剤を長期にわたって使用した場合に限られると のことだった。  問題が起こるのは、医師に相談することなく、勝手 に他の部位に塗布したり、症状が治まったからと自己 判断で使用を中止するヶIスに多いらしい。  こと話題が薬になると毒島さんはよく喋る。話につ いていこうと必死に相槌を打っているうちに、いつの まにかホテルの前に着いていた。  残念なような、ほっとしたような気持ちで、「こち らからお願いします」と通用口から中に案内した。階 段で三階にあがる途中で南さんとすれ違った。中野さ んの指示で、各階のリネンの在庫を確認しているとこ ろだという。  「お薬の件、どうなりましたか」  心配そうに言いながら、後ろにいる毒島さんを不思 議そうに見る。簡単に事情を説明する。  「わざわざ薬剤師さんに来ていただいたんですか」南 さんは目をまるくした。「すみません。こちらのミス でご迷惑をおかけして。どうかよろしくお願いしま す」  自分が悪いわけでもないのに、南さんは丁寧に頭を さげる。   三〇五号室では、美和子が苛立ちを隠そうともしな いで待っていた。なくなった薬をホテルの費用で弁償 したいが、そのためには茜を皮膚科に連れて行く必要 があることを爽太は率直に打ち明けた。しかし美和子 は納得しなかった。  「この子はもともと体が強くないのよ。今から病院だ、 薬局だって引っ張りまわしたら、疲れて、さらに熱が あがるかもしれないじやない」と頑として自分の考え を譲らない。  「話をさせてもらってもいいですか」後ろに控えてい た毒島さんが切り出した。 「あなた誰?」美和子がきつい視線を毒島さんに送る。 「薬剤師です」と毒島さんが答える。 「薬剤師って、このホテルの薬剤師ってこと?」 「いえ。近所の調剤薬局で働いている者です。お子様 がアトピー性皮膚炎だと聞いて、何かのお役に立てな いかと伺いました。ついては発疱してから今までの流 れを、ざっとでいいので聞かせてもらえませんか」  「お医者さんでもあるまいし、そんなこと訊いてどう するのよ」  「症状がわかれば、代替の薬をご提案出来るかとも思 います」  毒島さんはどこまでも冷静だ。美和子は茜をちらり と見てから、「最初に症状が出だのは一歳を過ぎる頃 だったかしら」と話をはしめた。  首筋や耳の付け根、関節の内側に出来た湿疹は、市 販の薬を塗ってもよくならず、病院に行くとアトピー 性皮膚炎と診断された。命にかかわる病気ではないけ れど、痒くて患部を掻き毟ってば、体のあちこちを血 だらけにする子供の様子は、親にすれば胸が痛む。そ れで病気のことをインターネットで調べて、評判のい いクリニックや病院をいくつも巡った。幼い頃は、ス テロイド外用薬を使わない治療法を推奨するクリニッ クや病院を優先したが、症状は一進一退を繰り返し、 さらに小学校に入ると、茜が自分の症状を気にするよ うになってきた。体育の授業で赤く血が滲んだ肌を人 目にさらすことに、強い抵抗を覚えるようになったの だ。それで仕方なくステロイド外用薬を使用する近所 のクリニックに通うようになった。とりあえず効果は あって、ここ数年は薬で症状を抑えることを続けてい る、と美和子は言った。  「なるほど。丁寧な説明をありがとうございます。そ れで今使っているリンドロンDP軟膏ですが、使いは じめたのはいつからですか」  「今年になってからよ。その前は同じリンドロンでも VG軟膏を使ってたわ」  「VG軟膏はV群のストロング、それに対してDP軟 膏はH群のベリーストロングですね。薬が強くなった ことについて、担当の先生からはどういう説明があり ました?」  「指示通りに薬を塗っているのに、なかなか症状が良 くならなくて、それを言ったら、もっと強い薬を試し てみましようか、と言われたの。できれば強いステロ イドは使いたくないけど、この子の様子を見ていると そんなことも言ってられなくて。だから先生の提案を 受け入れることにして、このリンドロンDP軟膏に変 えたのよ」  いつのまにか美和子の口調は落ち着いたものになっ ている。毒島さんが薬剤師だということで信頼を得た ためだろうか。  「次に薬の塗り方ですが、普段どうされているか教え てもらってもいいですか」  「別に特別なことはしていないけど」  「お手数ですが、普段のやり方を再現してもらっても いいですか」  美和子はナイトテーブルの上から保湿剤の瓶を手に 取った。それから不安そうな顔の茜の横に行き、「薬 剤師さんに見てもらうから、ちょっと背中を出してみ て」と茜をうつぶせにして、着ている服をまくりあげ た。背中や脇のあたりが、赤く爛れて血が滲んでいる のが一瞬見える。  爽太は後ろに下がると、そちらを見ないように背を 向けた。背中越しに薬の塗り方を説明している美和子 の声が聞こえる。毒島さんがうまく話をしてくれてい ることに感謝しつつ、それにしても薬はどこに行った のだろう、と考えを巡らせた。  ナイトテーブルから屑籠に落ちたとしたら、部屋か ら出たゴミを探せば絶対に見つかるはずだ。それがな いということは、忽然と部屋から消えたことになる。 美和子が不在の間、部屋に入ったのは客室係だけのは ず。貴金属や現金なら盗難をも疑うべきところだが、 物が物だけにその可能性はないだろう。  もしかして薬は部屋のどこかにあるのだろうか。美 和子と茜に部屋を移動してもらい、もう一度部屋を探 すことを考える。しかし今日は土曜日とあってツイン の部屋は満室だ。馬場さんに頼んで部屋を調整しても らおうか。  思い悩んでいると、「そんなに塗るんですか」と驚 く美和子の声が聞こえた。振り返ると、まくりあげた 服をおろした茜の横で、美和子が目を吊り上げて、険 しい声を出していた。  「ステロイドつて危険な薬なんですよね。一度にそん な量を塗って、本当に平気なんですか」  しかし毒島さんは落ち着いていた。  「ワンーフインガーチップーユニットという言葉をご 存知ですか」  「何それ。知らないわ」  「ステロイド外用薬などを肌に塗るときの目安です。 大人の人差し指の先端から第一関節までの分、薬をひ ねり出し、それを大人の掌ふたつ分に広げ患部に塗る のが適量とされています。ただし使用するチューブの 口径の違いによって量が変わるので、それについては 注意が必要ですが」  毒島さんは保湿剤を自分の掌に出しながら、およそ O・5gというのが一度に塗る目安になっています、 と言い足した。  「こんなに塗るの? 今までこの半分くらいしか塗っ てなかったわ」  「どんな薬であっても効果と副作用があります。大事 なのは副作用で重篤な状態にならないように薬の使い 方をコントロールすることです。ステロイドは内服薬 と外用薬がありますが、服用に際して、重大な副作用 が発生する可能性が高いのは内服薬の方です。外用薬 については通常の使い方をしていれば、副作用が起こ ることは稀ですし、仮に起こっても使用を中止すれば、 ほぼ問題がない状態に回復します。使う側か必要以上 にステロイドを怖がって、使用量を少なくすれば、期 待された効果が得られずに、お医者さんはもっと強い ステロイドを使ってみようと考えることでしょう。薬 のレベルがあがることで、使う側はまた怖がって、さ らに使う量を少なくする。そんな状況が重なると、い くらステロイドを塗っても症状が一向に回復しないで、 使う薬ばかりが強くなるという悪循環につながりま す」  「じやあ、茜の症状が回復しないで薬ばかりが強く なっていったのは、私のせいってことですか」美和子 はショックを受けたような声で言う。  「誰のせいということはありません。とりあえず理解 してほしいのは、ステロイド外用薬はそこまで危険な 薬ではないということです。用法用量を守って使えば、 きちんとした効果が得られます。その逆に無闇に怖 がって中途半端な使い方をすると、治るものも治らず に、何度も症状がぶり返すことになります」毒島さん は穏やかな声でゆっくりと説明した。  「アトピー性皮膚炎は完治が難しい病気です。医療現 場でも統一された治療方針が確立されておらず、専門 の医師の間でもステロイドの使用や治療方法について は温度差があるのが現状です。将来、画期的な治療方 法が確立されれば、これまでのことがすべて否定され る可能性だってあります。ここまでお母さまの話を聞 いて、アトピー性皮膚炎の対処に根本的な問題があっ たとは思いません。だからお母さまがご自身を責める 必要はありません。あまり神経質になりすぎず、もっ とおおらかに病気と向き合うことも、ときには必要な ことだと思います」  美和子は黙って聞いていたが、やがて深いため息を つくと、「そうだったんですか。お医者さんや薬剤師 さんの話はよく聞いていたつもりだったんですが、根 本的なところをよくわかっていなかったみたいです。 色々と教えてくれてありがとうございます」と頭を下 げた。  「これは私の仕事ですからお気になさらすに。そして、 とりあえずここまでが前段です。次にこれから取るべ き方法についての提案です」と毒島さんは話を続ける。  「ひとつはさきほど水尾さんが提案した、今やってい る病院を探し、診察を受けて、処方箋をもらうという 方法ですが、これにはお子様の体調の問題があるとい うお返事でしたよね。そこで私からは代替となる市販 薬の購入を提案いたします。クルコートという薬です が、ステロイド外用薬で、ステロイドとしては上から 三番目の強さです。リンドロンDP軟膏よりはランク が下ですが、とりあえず今夜と明日一日の使用であれ ば、大きな問題はないと思います。薬剤師のいるド ラッグストアに行けば入手できますので、それを使用 するのが、もっとも現実的な解決方法かと思います が」  えっ、そんな薬があったのか。爽太は驚いて毒島さ んの顔を見た。それならそうと教えてくれればいいの に、どうして今まで黙っていたのだろうか。  「クルコートですね。知っています。できればリンド ロンを使いたかったのですが、こうなったら仕方ない ですね。予備の薬を持ってこなかった私も悪いので、 それでなんとか対処します」  あっさり頷く美和子に、爽太は思わず拍子抜けした。 なんだ、それでいいのか、だったらこんな大騒ぎをす る必要はなかったじやないか。  しかしすぐに、いや、違う、と思い直した。薬剤師 である毒島さんがわざわざ出向いて話をしてくれたか ら、美和子も納得してくれたのだ。自分がどれだけ話 をしたところで、美和子は絶対に納得しなかっだろう。 もしかして毒島さんがわざわざホテルに来てくれたの は、それを考えてのことだったのか。爽太は感心しな がら、足を前に踏み出した。  「ご理解いただきありがとうございます。今回のこと はこちらのミスですので、その薬については、私ども が責任をもって購入して参ります」  「わかりました。お願いします」  美和子はあっさり頷いた。そして爽太の顔をあらた めて見て、  「ごめんなさい。実はクルコートのことはすぐに頭に 浮かんだんです。でもそれで納得したら、自分がこれ まで茜のためにしてきたことが、すべて無駄になって しまうような気がしたもので……」と済まなそうに頭 を下げた。  「それで病院には行かない、なくした薬を持ってきて、 と無理難題を言ってしまったんです。まるでクレー マーですね。冷静になって考えると恥ずかしくなりま す。母親として、本当に茜のためを思うなら、クル コートを買うなり、皮膚科に行くなり、解決の道を探 るべきだったのに」  美和子は(ンカチを出して目に当てる。ベッドで寝 ていた茜がごそごそと起き出し、その背中に寄り添っ た。  「ごめんね。お母さん、ずっと怒ってばかりで。そば で聞いていた茜も嫌だったよね」  美和子は娘の頭に手を伸ばす。さきほどまでの険し い顔が嘘のように、美和子の顔は穏やかになっている。 茜もひしとその背中に抱きついている。本来は内気で 控え目な母娘なのだろう。  「せっかく遠いところを来てくれたのに騒がせてごめ んね。明日はディズニーランドを楽しんで来てね」  爽太が声をかけると、「お兄さん、お姉さん、あり がとう」と茜は頷いた。  「そうだ。とっておきの穴場を教えてあげるよ」爽太 は茜の持っていたガイドブックを借りると、ページを めくって指さした。  「こことここ、それからここも。岩陰やタイルの中に 秘密の隠れギャラがいるからね」  「本当に? わあ、お兄さん、ありがとう」  喜んでペンで印をつける茜に手をふって部屋を出る。 爽太はほっと息をつきながら、あらためて毒島さんに 礼を言った。「ありがとうございました。本当に助か りました」  「とんでもないです。大事にならずに何よりでした」  毒島さんは事もなげに言う。誰もいない廊下で二人 きり。今がチャンスと口を開いた。  「それで毒島さん、今までのお礼と言ってば何ですが I」  しかしそれを遮るように、「ミズオさん」と廊下の 反対側から声がした。  「大変なの。すぐに来てI」  小柄な女性が駆けてくる。リンさんだ。息を切らし ながら、爽太の腕をぐいと掴んで引っ張った。  「ナカノさんとミナミさんが大変よ。飲み物に睡眠薬 を入れたと言って、二人で喧嘩を始めたの。お願いだ からすぐに来て」  「飲み物に睡眠薬って、一体何のことですか」  「説明はあとあと。早く来て。ああ、そうだ。そっち の薬剤師さんも一緒にね。お願いだから早くして I」  爽太は毒島さんと顔を見合わせて、とりあえずリン さんに言われるままに一階に向かった。  客室係の控え室では中野さんと南さんが睨み合って いた。  「どうしたんですか」  「この人が水筒に睡眠薬を入れたのよ」  中野さんは蓋を取ったステンレス製の水筒を突き出 した。(Iブティーを入れていたものだ。中を覗くと 薄茶色の液体の中に、白い細かな欠片が漂っているの が見える。  「何かありますね」  「砕いた睡眠薬よ。この人が中に入れたのよ」中野さ んは憎々し気に南さんを見る。  「違います。中野さんの誤解です」  しかし南さんは否定する。これだけでは、何かどう なったのかわからない。いきりたつ中野さんをなだめ て、なんとか話を聞き出した。  それによると、パートの従業員を帰宅させた後、二 人は残った仕事を片付けていたそうだ。  中野さんは控え室で従業員の勤怠管理と来月分のシ フト作成を行ない、南さんは各階の倉庫をまわって、 リネンやアメニティの在庫管理を行なった。しばらく すると南さんが戻って来て、爽太が薬剤師だという女 性と一緒に三〇五号室に行ったという話をした。なく なった薬の件で宿泊客と話をするのだろうと思い、仕 事をしながら爽太からの連絡を待った。  途中で中野さんは洗面所に立った。五分ほどで控え 室に戻ったが、そのとき冷蔵庫の前にかがみこんでい る南さんを見つけたそうだ。南さんは、中野さんの水 筒を左手に持ち、右手を蓋にかけていたという。中野 さんに気がつくと、慌ててそれを冷蔵庫に戻した。そ れで中野さんはぴんと来た。私の水筒に何をしたの、 と中野さんは怒った。しかし南さんはそれを否定した。 何もしてない、使い勝手がよさそうだと思って重さを 確かめていただけだ、と主張した。嘘よ、嘘じやない です、と言い合いをしているところに、ちょうどリン さんが戻って来たそうだ。  自分に話が及ぶとリンさんは言った。  「ワタシ、ロッカーに携帯電話を忘れました。戻った ら二人がケンカしている。止めようとしたけど中野さ んは怒って、ワタシの話を聞いてくれない。そしたら 南さんが、水尾さんを呼んできてと言いました」  薬剤師さんと一緒だから二人とも連れて来て、と言 われてリンさんはその通りにしたそうだ。  「そうだったんですか。でもそれだけのことで睡眠薬 を入れたとするのは、話が飛躍しすぎだと思います が」  爽太は言ったが、中野さんは納得しない。  「それだけじゃないわ。そう思うだけの根拠があるの よ」と言い返す。  「最近、仕事が終わって帰る途中、いきなり睡魔に襲 われることがよくあるのよ。地下鉄の座席でいつの間 にか眠ってしまって、西船橋で降りるはずが、気がつ いたら終点まで行っていたことが何度かあるわ。これ までは一度だってそんなことはなかったのよ。どれだ け疲れていたって、西船橋に着いたらちゃんと起きら れた。それが最近はおかしいの。気を失うように眠っ てしまって、気がつくとまるで時間が飛んだみたいに なっている」  「でもそれだけで睡眠薬と結びつけるのも無理があり ますよ」  「テレビで見たのよ。仕事場でいじめられていた女性 が、仕返しに皆で飲むウォーターサーバーの中に睡眠 薬を入れた事件があったって。それを見て、もしかし たらと思っだの。仕事柄、私もみなに厳しく当たるこ とがよくあるわ。現場責任者として当然だし、嫌われ ても仕方ないと思っているけれど、中にはそれを快く 思っていない人もいるんでしようね。それで南さんに 相談したの。パートの中にそんなことをしそうな人が いれば、すぐに教えてちょうだいって」  「そうなんですか」  爽太が尋ねると、南さんは黙って頷いた。さきほど 水筒に悪戯をする人がいると言っていたのはそのこと か。  「それでいて結果はこの有り様よ。まさかこの人が犯 人だとは思わなかったわ。信用していたのに、まさか こんなことをするなんてI」  怒りに満ちた目で中野さんは南さんを見る。  「私は何もしていません。全部中野さんの思い込みで す。失礼ですが、加齢のせいか、あるいは何かの病気 じゃないですか」と南さんは顔を赤くして言い返す。  「私はまだ五十にもなっていないし、体はいたって健 康よ。去年の健康診断だって、何も異常はなかったの よ。いつも言っているでしょう。病気にかかるほど弱 い人間じゃないのよ、この私は」  「病気にかかるのに強いとか弱いとか関係ないです。 過信されずに、もっと謙虚になった方がいいと思いま す」  普段からは想像できないような毅然とした口調で南 さんは言い返す。  「よく言うわね。あなたのせいで私は危うく死にかけ たのよ。ホームで電車を待っているときにいきなり睡 魔に襲われて、そのまま線路に落ちそうになったこと もあるんだから。たまたま駅員さんがそばにいたから 大事には至らなかっだけど、そうじゃなかったら死ん でいたかもしれないわ。あんたのしたことは殺人未遂 よ。私は絶対に泣き寝入りはしないからね。警察に 行って被害を訴えるわ。逮捕されるのを覚悟しておき なさい」  「落ち着いてください。中野さんは、南さんが水筒を 手にしたところを見ただけで、何かを入れたところを 見たわけではないですよね」  爽太が取りなすが、中野さんの怒りは収まらない。  「それだけ見れば十分よ。いつも私に叱られているか ら、仕返しでそんなことをしたのよ。この人、仕事の 段取りが悪くて、いつもあたふたしているの。それに パートヘの対応も落第点よ。ただ優しくするばかりで、 叱ることが出来ないのよ。だからパートはつけあがる ばかりだわ。それが続けば仕事の質が下がって、最後 はお客さんのところにつけがいく。今回の薬がなく なった件だって、つまるところそれが原因じゃない。 いい加減な気持ちで仕事をしているから、お客さんの 私物をなくすのよ」  それはそうかもしれないが、しかし睡眠薬云々の話 とはまた別だろう。  「他にもこの人を疑う根拠はあるわ。この人、普段か ら変な薬を持ち歩いているの。仕事の合間にこっそり 飲んでいるのを見たことがあるわ」  中野さんは冷たい視線を南さんに向ける。  「言いなさいよ。やましいことがなければ言えるで しょう。あなたがいつも飲んでいる、あの薬、レメ ディとかの話をしなさいよ」  レメディとは一体何だろう。爽太は南さんの顔を見 たが、口を真っすぐ結んで何も言わない。すると横に 控えていた毒島さんが、「それはホメオパシーのこと ですか」と言った。  またわからない言葉が出て来た。毒島さんと知り 合ってから薬草や薬に関する本を色々読んだが、レメ ディとかホメオパシーなんて言葉は初めて聞いた。 「ホメオパシーつて何ですか」毒島さんに訊いた。 「十九世紀のドイツに端を発する、現代医学とはまっ たく異なる治療術の体系です」と毒島さんは言った。  「特徴は〈同種のものが同種を治す〉という考え方で す。植物や鉱物を希釈した液体を小さな砂糖の球にし みこませたレメディという物質を服用することで、服 用者の自然治癒力をあげて、病気を治療することを目 的としています。現代の医学界においては、実効性の ない疑似療法と言われていますし、過去には国の機関 が、医療関係者に治療で使用しないようにとの談話を 出したこともあります。科学的に言えば、レメディと は毒にも薬にもならない物体、ただの砂糖の瑰です。 それを飲むことで偽薬効果が期待できると主張する人 もいますが、傾倒すると、現代医学の適切な治療を受 けるタイミングを逃す可能性があるので、推奨するべ きでないというのが、医療関係者の代表的な考えと なっています」  「よくご存知ですね」南さんが驚いたように息をつい た。  「以前に勤めていた調剤薬局で、ホメオパシーに傾倒 して、薬を飲みたくないと主張する患者さんがいたん です。ご家族が相談に来られたので、説得するために ホメオパシーに関する本を色々と読みました」  「ちょっと待ってよ。いきなり話に割り込んで’・ あ なたはどこの誰なのよ」  中野さんは不機嫌さを隠そうともしないで毒島さん を見る。  「近所の調剤薬局に勤める薬剤師の毒島さんです。三 〇五号室の件で力を貸してもらいました」  爽太はすかさず口にした。しかしその言葉を受けて 南さんが、「さすが薬剤師さんですね。何も知らない くせに悪口ばかり言う人とは違います」と中野さんを 刺激するようなことを言う。  「何よ。喧嘩を売っているの’・」案の定、中野さんが 声を荒らげる。  「待ってください。お二人とも、そう喧嘩腰にならな いで」  二人をなだめながら、今日の南さんは普段と様子が 違うと爽太は思った。いつもなら唯々諾々として中野 さんに従うばかりなのに、今日に限って、どうしてこ う挑発するようなことを言うのだろうか。しかし毒島 さんはそんな二人の様子は意に介さずに、「失礼です が、ホメオパシーに頼られているのですか」と南さん に質問した。  「昔のことで今は違います」と南さんはかぶりをふっ た。「過去には入れ込んだ時期もありました。でも はっきりした効果が得られないのでもうやめました。 今は当時買い込んで残った物を、気分転換に口にする 程度です」  「そうですか。それならいいですが」と毒島さんは中 野さんに向き直る。  「ご挨拶が遅れました。どうめき薬局の薬剤師の毒島 といいます。ホメオパシーの話はさておき、睡眠薬を 混人した疑いがあると聞いては見過ごすわけにはいき ません。その水筒を見せてもらってもいいですか」  「いいですよ。しっかり見てください」  中野さんは水筒を毒島さんに差し出した。毒島さん は蓋を取って中を覗く。  「浮き沈みをしている小さな欠片があるでしょう。睡 眠薬の破片で間違いないですよ」と中野さんが言う。  「どうでしよう」毒島さんは顔をあげた。「ピーナッ ツの欠片のようにも見えますが」  ピーナッツ? 爽太は中野さんの事務机に目をやっ た。開封済みの柿の種とピーナツが入った菓子の袋が 置いてある。  「ピーナッツを食べながらお茶を飲んだことで、欠片 が水筒に交じったということはないですか」  「ありえません。私はピーナッツが嫌いで食べません。 だからそこにもピーナッツだけが残っているはずで す」  爽太は袋を確かめた。たしかにピーナッツだけが 残っているようだ。一部が細かく砕かれているのが気 にかかるが、中野さんの言葉に墟はないようだ。  「絶対に睡眠薬ですよ。この人が砕いて混入したんで す」  中野さんが言い立てたが、毒島さんは静かに首を横 にふった。  「残念ですが、これだけではそうとも違うとも言えま せん」  中野さんは不満そうな顔をして、毒島さんの手から 水筒を奪いとる。  「そうですか。仕方ないですね。それなら警察に連絡 します」  「本気ですか」爽太は驚いた。  「私はこの件をうやむやにしたくないんです。なんと いっても危うく死にかけたんですからね。やましいこ とがないと言うなら、南さんにも異論はないと思いま す」  中野さんは挑むような視線を南さんに向ける。南さ んは少し怯んだ顔をしながらも、「構いません。でも 警察を呼んで睡眠薬じゃなかったら、恥をかくのは中 野さんの方ですよ」と言葉を返した。  「いいわよ。そこまで言うなら私だって覚悟があるわ。 もしもこの水筒に睡眠薬が入っていなかったら仕事を 辞めるわよ。こんな中途半端な気持ちのままで、仕事 を続けていくなんて嫌だもの。とにかく白黒をつけた いの」  そういうことだから早く警察を呼んでください、と 中野さんは爽太に向かって声を出す。  「待ってください。もっと冷静に考えましようよ」  ホテルという場所柄、警察を呼ぶのはあまり好まし いことではない。しかも今日は土曜日でフロントは混 雑している。しかしいきりたつ中野さんは納得しない。 すると毒島さんが中野さんに声をかけた。  「警察を呼ぶのもいいですが、その前に、少し質問さ せてもらってもいいですか」  手にはスマートフォンを持っている。その画面をち らっと見てから。  「眠気に襲われるとのことですが、それはどういった 感じですか。段々眠気が強くなり、うとうとしながら 寝てしまうという感じですか。それともいきなり強い 眠気に襲われて、気がついたら寝てしまったという感 じですか」  「それはいつもいきなりよ。突然逆らえないほどの眠 気に襲われて、気がつくと自分が寝ていたことに気づ くのよ」  「では、目を覚ますときはどうでしよう。自然に目が 覚めますか。それとも誰かに起こされることで気がつ きますか」  「他人に起こされたことはないわ。いつも自然と目が 覚めるわよ」  「目覚めたときの体調はどうでしよう。頭が重かった り、吐き気がしたり、自分が何をしているのかわから ないといったことはありますか」  「頭痛も吐き気もないわよ。目が覚めたときは、いつ もすっきりしているわ」  「眠っている時間はどれくらいですか」  「三十分から四十分くらいね。長くても一時間を超え ることはなかったわ」  「その状態になるのは、帰り道だけですか。朝や昼、 あるいは自宅でくつろいでいるときに同じ症状が出る ことはないですか」  その質問で、はじめて中野さんは答えるのを躊躇し た。  「……ほとんどは帰り道で起こるけど」  「ほとんどというと、そうじゃないときもあるわけで すか」  「いいじゃないの’・ そんなこと’・」中野さんはいき なり大声を出した。  「人のプライベートに立ち入るような質問をしないで よ’・ それよりもあなた、いま症状って言ったわね。 何よ、それ。まるで私か病気みたいな言い方じゃな い」  「これは一薬剤師としての意見ですが、中野さんの経 験している状態は、睡眠薬の影響とは思えません。改 善したいと思うのであれば、警察に行くよりも専門医 に相談をすることをお勧めします」  「私か病気だって言いたいの’・」中野さんは目を吊り 上げた。  「ふざけたことを言わないでよ。薬剤師なら、もっと 人の気持ちを考えなさいよ。私は病気になるような弱 い人間じゃないの。小さな頃から風邪ひとつ引いたこ とないのよ。病気なんてありえないわ’・」  中野さんはわめきたてたが、毒島さんが慌てること はなかった。  「薬が効く仕組みをご存知ですか。薬は食べ物と同様、 食道と胃を通って小腸に行き、そこで吸収されて血液 中に大ります。門脈から肝臓に大った薬はそこで代謝 されて、その後に血流に乗って、体内を循環しながら 患部に到達し、そこで効用を発揮するわけです。その 後に腎臓で排泄物として処理されるわけですが、すべ てが排泄されるまでには一定の時間がかかります。睡 眠薬はその作用時間で四種類に分類されますが、一番 効果の時間が短い超短時間型でも、血中半減期は二時 間ほどです。つまり睡眠薬を摂取すれば、最低でも二 時間から四時間は効果が持続するわけです」  「睡眠薬の説明なんて聞きたくないわ。あんたは一体 何か言いたいのよ」  「結論を言えば、飲み物に睡眠薬を混入することで、 一時間以内に目覚めるような眠気を催させることは不 可能だということです」  「そんなの使う量を調整すれば、どうにだってなる じやないの」  「そうはいきません。使用する量を少なくすれば、睡 眠薬としての効果を十分に発揮できません。眠気は感 じるが、眠るまでには至らないというのがせいぜいで、 ホームでいきなり膝から崩れ落ちるような状態にはな りません。さらに従来の睡眠薬には、覚醒後のふらつ きや、薬を飲んだあとに記憶がなくなる前向性健忘な どの副作用がつきものです。いきなり強い眠気に襲わ れて、短時間の睡眠ののちに気分がすっきりして目が 覚める。そんな睡眠薬が存在するなら、不眠に悩まさ れる患者さんはこぞってそれを買い求めるでしょう」  中野さんの状態を考えるに、睡眠薬を飲まされたこ とを疑うよりも、病気であることを疑うべきだと思い ます、と毒島さんは言葉を続けた。しかし中野さんは 納得しない。  「そんなのただの知識でしょう。睡眠薬を実際に飲ん だこともないくせに適当なことを言わないでよ」と言 い返す。  すると毒島さんは、「飲んだことはあります」と言 葉を返した。  「昔、北海道の調剤薬局で仕事をしていたときに、気 候や生活習慣の違いで眠れなくなったことがあって、 そのときにせっかくだからと思って、色んな睡眠薬を 試してみました。ベンゾジアゼピン系、非ベンゾジア ゼピン系、バルビツール酸系、メラトニン受容体作動 薬、オレキシン受容体拮抗薬と、マルシオンからダル ビートまで四種類の薬をすべて飲んだことがあります。 でも中野さんが悩まされたような状態になったことは 一度だってありません」  中野さんは怯んだような顔になる。知識に裏打ちさ れた毒島さんの発言を前にして、お得意の持論では太 刀打ちできないと気づいたようだった。  「でも、会社の定期健康診断では何も異常はなかった のよ」  「定期健康診断ですべての病気が判明するわけではあ りません。ナルコレプシーという病気をご存知ですか。 別名、眠り病といって、日中に強烈な眠気に襲われて 眠り込んでしまう病気です。一度の睡眠は二十分から 三十分で、目覚めた後はすっきりするという症例も、 中野さんの状態に似ています」  さきほどの質問は、その病気の症例に関するもので す、と毒島さんはスマートフォンの画面を中野さんに 見せた。  「私かその病気だって言いたいの?」  中野さんは顔を歪めた。口元の筋肉がピクピクと痙 攣しているのは、自分の意見を否定された怒りか、あ るいは自分が病気かもしれないという不安を覚えたせ いか。  「それは私か判断することではありません。でも話を 聞いている限りでは、早急に専門医に相談した方がい い事柄だとは思います」  「冗談じやないわ。私かこんなになったのは、誰かに 薬を飲まされたからよ。私は病人なんかじやない。卑 劣な犯罪の被害者よ」  中野さんは納得しなかった。すると毒島さんは、 「わかりました。それではこうしませんか」と辛抱強 く言葉を続けた。  「まずは病院に行って検査をする。そこで異常がない とわかったら、あらためてその水筒を持って警察に行 く。そういうことではいかがでしょう」  「ダメよ。時間が経ては、睡眠薬の成分が消えてしま うかもしれないじやない」  「薬の成分は、そのほとんどが肝臓の代謝酵素の働き で代謝されます。その酵素が存在しない状況では、仮 に変質したとして、数日間で成分が消失することはあ りません」  「本当なの?」中野さんは疑うような顔をする。  「嘘なんかつきません」  「じやあ、これは証拠になるわけね」中野さんは水筒 を両手で握りしめた。  「ナルコレプシーには、突然眠くなる睡眠発作以外に も、睡眠麻痺や、人眠時幻覚といった症状もあるよう です。夜眠りにつくときに、金縛り状態にあったり、 うなされるような悪夢を見るという症状のようですが、 これについて心当たりはないですか」  毒島さんの質問に、「ないわよ。そんなこと」と中 野さんは答えたが、しかしその口調はどこか不安気 だった。  「仮にナルコレプシーであったとしても、薬で治療は 可能です。今は副作用の少なく、効果の高い中枢神経 刺激薬があります。定期的に服用すれば、問題なく日 常生活を送ることが出来ますよ。そのためにも早急に 専門医を受診することをお勧めします。今は大きな問 題がないようですが、さらに進行すると所構わず眠く なって、さらに危険な目に遭う可能性もありますか ら」  毒島さんの言葉に中野さんは黙り込んだ。ホームか ら転落しそうになったことを思い出しているのかもし れない。悔しそうに顔を歪めると、「わかったわよ。 医者に行けばいいんでしょう。でも異常がなかったら、 そのときはこの水筒を警察に持って行くからね I’・」と南さんをにらみつけた。  「あなたには証人になってもらうから、そのつもりで いてちょうだいね」  爽太に向かって強い口調で言うと、水筒を持って、 肩を怒らせ控え室を出て行った。  「すごいですね。一人で大騒ぎをして行っちやいまし た」  中野さんがいなくなった控え室で爽太は思わず呟い た。  「あの人はいつもあんな感じです。ワタシはもう慣れ ました」  リンさんは笑いながら言ってから、「ああ、もうこ んな時間、帰らなきや」と時計を見て大慌てで控え室 を出て行った。  「リンさん、どうもありがとう」  南さんがその背中に声をかける。控え室には爽太と 毒島さんと南さんの三人が残された。  「ありがとうございました。あらぬ疑いをかけられて 困っていたので、話をしていただき本当に助かりまし た」南さんがあらたまって毒島さんに頭を下げる。  「気にしないでください。病気の疑いのある方に受診 勧奨をすることも薬剤師の仕事の一部ですから」毒島 さんは事もなげに言う。  「薬剤師さんの言葉だから、中野さんも聞いてくれた んだと思います。私だけだったら、本当に警察を呼ん でいたかもしれません。他人の飲み物に睡眠薬を入れ るなんてことを、私やパートさんがするはずないじや ないですか。でもあの人は本気でそれを疑っていたん です」と南さんはため息をつく。  「中野さんとは一緒に仕事をして長いんですか」と爽 太は訊いた。  「もう七年目になりますか。悪い人ではないんですが、 とにかく他人を信用しないので、一緒に仕事をしてい ても苦労することが多いです」  「−ひとつ訊いてもいいですか」毒島さんが遠慮が ちに口を開く。  「なんでしよう」  「あの水筒には本当に何も入れていないんですか」  南さんはぎよっとした顔をした。  「どうしてそんなことを訊くんですか。やっぱり私を 疑っているんですか」  「睡眠薬を入れたとは思っていません。でもあの欠片 は気になりました。たとえばですが、砕いたピーナッ ツを入れることで、睡眠薬を混入したように見せかけ たということはないですか」  毒島さんの言葉に南さんは黙り込む。爽太は困惑し ながら口をはさんだ。  「どうして南さんがそんなことをするんです。そんな ことをする理由はないですよ」  「理由はあります」と毒島さんは言った。  「どんな理由ですか」  「私たちがここに来た経緯を考えれば、おのずとその 答えは出ると思います」  「僕たちがここに来だのは、リンさんが呼びに来たか らですよね。リンさんは、南さんに呼んで来て、と言 われたと言っていましたが」  「そうです。私たちは南さんに呼ばれてここに来まし た。でもそれって変じやないですか。睡眠薬の混入を 疑って中野さんが騒ぎ出したとき、薬剤師がたまたま ホテルにいた。それはあまりに出来過ぎた話だと思い ます。そこは逆に考えた方が話の筋が通ると思いま す」  「逆ってどういうことですか」  「薬剤師がクレーム対応のためにホテルに来ているこ とを知っだので、その機を狙って中野さんが異物混入 で騒ぎ出すような芝居を南さんがしたということで す」  「芝居って、まさか南さんがI」  「芝居といってもやることは簡単ですよ。扉をあけた 冷蔵庫の前にいて、中野さんの水筒を手にしていれば いいだけですから。砕いたピーナッツを混入したのは、 それより前のことでしようね。中野さんが部屋を出た 後でそれをして、あとは戻って来るまで、冷蔵庫の前 で待っていればいいだけの話です」  毒島さんをこの場に呼ぶために、わざと中野さんが 騒ぎたてるような演出をしたということか。  「そうなんですか。南さん」爽太は恐る恐る問いかけ た。  「……すみません」南さんは素直に頭を下げた。  「そこまで見抜かれたのなら、すべて言います。パー トの誰かが水筒に睡眠薬を混入していると中野さんは 本気で疑っていました。それで、誰がやっているのか 探れと私に言ったんです」  「探れって、犯人を探せということですか」  「そうです。誰もそんなことはしていない、誤解だっ て言ったんですが、全然聞いてくれなくて……。なん とかしたいと思っていたところに、三〇五号室の騒ぎ があって、薬剤師さんが来ていると知りました。その ときに思いついたのが、薬剤師さんに話をしてもらう ことでした。薬のプロにそんなことはあるはずないと 言われれば、さすがに中野さんも納得するんじやない かと思ったんです」  すみません、浅はかな考えで関係ない方にご迷惑を おかけしてしまって、と南さんは毒島さんに頭を下げ た。  「私に謝る必要はないですが、ひとつ質問してもいい ですか」  「何でしょう」南さんは怯えたように毒島さんを見る。  「ご家族かお知り合いに、完治の難しい病気にかかっ ている方はいらっしやいますか」  南さんは、はっとした顔をしてから下を向いた。  「……子供に重い食物アレルギーがあります。卵や牛 乳、小麦、それから果物や海産物の一部がダメで、食 事にはかなり気を使っています」  「どうしてそんなことがわかるんですか」爽太は驚い て毒島さんに訊いた。  「さきほどホメオパシーに入れ込んでいたことがある と仰つてましたから。現代医学で完治が難しい病気に かかっている方ほど、代替医療、民間医療に入れ込む 傾向があるようです。心情はお察ししますが、現代医 学を否定する方向には行かないようにしてほしいので す。それで失礼を承知でそんなことを訊きました」  プライベートに立ち人つて申し訳ありません、と毒 島さんは頭を下げる。  「いいえ、そんな、大丈夫です」南さんは手をふった。  「仰る通り、子供の病気がわかって以来、病院の治療 以外に色々な民間療法を試しました。ホメオパシーも その一部です。でも効き目がなかったので、もうやめ ました。さっき言った通り、買い込んだレメディが もったいないので、自分で気分転換として飲んでいる だけです。今は子供に舌下免疫療法を受けさせるかど うかを悩んでいます。一定の効果が見込める半面、命 にかかわる危険もあるようなのでI」  「そうですか。それならいいですが」毒島さんは安心 したように頷いた。  「実は、私もレメディを飲んでみたことがあるんです。 でもこれといった効き目はありませんでした。やはり 非科学的な信仰だと思います」  「飲んだんですか? レメディを」  爽太はまた驚いた。さっきは様々な種類の睡眠薬を 試したとか言っていたし、どれだけチャレンジ精神旺 盛なんだ。この人は。  「患者さんに正確な情報を伝えるためには、やはり自 分で試してみることが一番だと思いますから。だから 試せる薬は、出来る限り試してみるようにしています。 まあ、そんなことが出来るのは一部の薬だけですが」  たしかにかかってもいない病気の薬を試すわけには いかないだろうけれど。  「あの、単純な疑問なのですが、薬剤師という職業は そこまでする必要があるんですか」  根本的なことを訊いてみる。毒島さんは首を横に ゆっくりふる。  「必要があるかと訊かれれば、ないと答えるしかない ですね。あくまでも個人的なこだわりです。でもホメ オパシーに関して言えば、自分で試したことで、自信 を持って効果はないと患者さんに言えるようになりま した。それと同時に、万にひとつの可能性を期待して、 代替医療にすがる患者さんの気持ちが理解出来るよう にもなりました。治療法の確立していない病気を患う ことは、それが命にかかわる病気でなくても、苦しい ことだと思います。しかし医療技術は日進月歩で進歩 しています。だから治療薬が発明される日がくること を、決してあきらめないようにしてほしいのです」  「……はい。ありがとうございます」  毒島さんの言葉を噛みしめるように聞いてから、南 さんはゆっくりと頭を下げる。  「では、これで」  爽太と毒島さんは連れだって控え室を出た。  「でも、南さんの意図がよくわかりましたね。一緒に 話を聞いていたのに、僕は何も気づくことが出来ませ んでした」  控え室のドアを閉めた後で爽太は言った。  「水尾さんは当事者だから、戸惑いが先に立ったのだ と思います。私は部外者だから客観的に物事を見られ たというだけの話です」  「そんなことはないですよ。もし逆の立場であっても、 僕にはわからなかったと思います。でもまだ疑問があ ります。南さんはどうしてそこまでのことをしたので しょうか。中野さんに、犯人を探せと命令されて困っ ていたのだとしても、異物混入を装うのは、あまりに リスクが大きいと思います。警察を呼ばれて、大騒ぎ になる可能性だってあったんですよ。もっと別の方法 はなかったんでしょうか」  爽太の言葉に毒島さんはすっと目を細めた。  「薬剤師としての経験から思うことですが、自身やご 家族が病気で苦しんでいる人ほど、他人の病気に敏感 になって、自分のことのように心配する傾向があるよ うです。これは私の想像ですが、中野さんから突然眠 くなるという話を聞いて、南さんはその症状がナルコ レプシーに似ていると思ったのではないでしょうか。 ナルコレプシーなら、薬を飲めば症状を改善できます。 病院に行きさえすれば問題は解決できる。だからなん としても病院に行かせたいと思ったのではないかと思 います」  中野さんは自分が病気かもしれないということを頑 なに認めようとしなかった。病気にかかることは自己 責任だというような発言を、普段からまわりにしてい たなら、それも当然のことだろう。  「でもだからってそこまでしますかね」  普段から中野さんのパワ(ラまがいの行動や暴言に さらされていたのだ。いい気味だと思いこそすれ、そ こまで親身になって行動するとも思えなかった。それ を言うと、毒島さんは不思議そうな顔をした。  「水尾さんなら南さんの気持ちがわかると思いました が。だってご自身が刺激性皮膚炎で苦労した経験が あったから、三〇五号室の母娘の件にあそこまで真剣 になって、ウチの薬局まで助けを求めて来たわけです よね」  「えっ、いや、それは」  いきなり言われて言葉につまっだ。心の中を見抜か れたようで恥ずかしかった。  「−僕はホテルマンとして当然のことをしただけで すよ」  照れ隠しに口にしてから、はっと気がついた。これ は毒島さんが口にする台詞と同じだ。ということは毒 島さんも自分と同じ気持ちでいるということか。クー ルに見えるが、毒島さんは患者さんの心情をいつも気 にかけている人だったのか。  「あの、毒島さん」  爽太は言いかけた。今なら誘えると思い、食事に一 緒に、と言いかけた。しかし背後からの声がそれを 遮った。ふりかえると控え室のドアをあけて南さんが 立っている。  「沢辺さんと電話がつながりました。薬のことなんで すが、三〇五号室の屑籠の中にあったのを拾っておい て、報告するのを忘れていたと言っています。すみま せんが、電話を代わってもらってもいいですか」南さ んは走ってきて携帯電話を差し出した。  「すみません。屑籠の中に新しい薬のチューブがある のを見つけたんですが、捨てた物か、落ちた物かわか らなくて、後で報告しようと思っていて、それをすっ かり忘れていました。薬はロッカーの制服のポケット に入っています。本当にごめんなさい。すぐに言えば よかったのに、早上がりをするのでハタハタしていて、 報告を忘れて上かってしまいました。本当に、本当に ごめんなさいI!・」  「ありました。沢辺さんの言った通り、制服のポケッ トに入っていました」  控え室のロッカーを調べた南さんが薬のチューブを 持って戻ってきた。間違いない。リンドロンDP軟膏 と書いてある。未開封だ。  「よかったですね。これでクルコートを買いに行く必 要もなくなりました」  それではこれで、と毒島さんは一礼して去っていく。  ごめんなさい、皆さんに迷惑をかけて、本当にごめ んなさい、と謝り続ける沢辺さんを、大丈夫ですよ、 お客様は全然怒っていませんから、と宥めながら、爽 太は毒島さんの後ろ姿をなす術もなく見送った。  I  水曜日の午後四時。夜勤を終えた爽太は風花にいた。  この店の窓際の席に座ると、道をはさんでどうめき 薬局の入ったビルの通用口が見えるのだ。前に来たと き、爽太はその事実に気がついた。そこでその席に腰 を落ち着けて、仕事を終えた毒島さんが出てくるのを 待とうと考えたのだ。姿を見たら後を追いかけ、食事 に誘うと決めていた。ストーカーめいた行動だという 気もするが、本人の連絡先を知らない以上、こうする しか方法はないと割り切った。  窓際にテーブル席はふたつある。  片方には髪を七三分けにして、黒いサングラスをか けた中年男性が座っていた。テーブルに医師国家試験 の受験参考書を積み上げて、一冊を熱心に読んでいる。  爽太はもう片方の席に座ると、鞄から本を数冊取り 出した。どうめき薬局の平日の営業は八時までだ。最 長なら四時間ほどここで待つことになる。ただ座って いるのも能がないと思い、前もって図書館に行って薬 に関する本を借りてきたのだ。通用口を視界の端に捉 えながら、ページを開いて文字を追う。読みながら窓 に目をやると舗道がいつのまにか濡れている。そうい えば天気予報では夕方から雨になると言っていた。  薬学に関する本は専門的すぎてわからない。次に毒 物や中毒に関する本を手に取った。万人向けなので読 みやすい。覚醒剤や大麻の項目を読んでいると、ふと 視界の端を赤い物が動いた。  はっとして顔をあげた。通用口から出て来た人が赤 い傘を広げて歩き出している。傘の陰になって顔はも ちろん上半身もよく見えない。しかし背格好からして 毒島さんである可能性が高そうだ。ここで行かれてし まっては、この席にいた意味がない。用意してあった 小銭をテーブルに置くと、爽太は急いで風花を飛び出 した。  人混みを縫うように赤い傘は駅に続く坂をおりてい く。爽太は折り畳み傘を広げて後を追う。運よく交差 点の信号が赤になり、赤い傘はその前で立ち止まる。 爽太はさりげなく近づいて、その隣に肩を並べた。小 さく息を吸ってから、「こんなところで会うなんて奇 遇ですね」と声を出す。  赤い傘が傾き、女性の顔が現れる。  「……!・」  別人たった。すみません、と言いかけた言葉をすん でのところで飲み込んだ。ゆるふわのセミロングに見 覚えがある。  「……水尾さんでしたっけ」  刑部さんだった。  「なくなったお薬、見つかったそうでよかったです ね」  邪気のない口調で言って微笑んだ。先週の土曜日の ことを言っているのだろう。  「毒島さんのお陰で助かりました。本当にお礼の言葉 もありません」爽太はすかさず頭を下げた。毒島さん と間違えて声をかけたことには気づかれてないようだ。 このまま誤魔化し、立ち去ろう。  「もう仕事は終わりですか。早く帰れていいですね」  しかし刑部さんは「違うんですよ」と顔をしかめた。  「クレーム対応で、これから患者さんの自宅に行くと ころです」 「えっ、薬剤師さんもクレーム対応なんてするんです か」  爽太は大きな声を出していた。クレーム対応なんて ことはサービス業に従事する人間がするものだと思っ ていたのだ。  「もちろんですよ。クレーム対応も薬剤師の日常業務 の一環ですから」  「知りませんでした。どんなクレームがあるんです か」  好奇心からそんな質問が口をつく。  「様々ですね。これまで飲んでいたのと違う薬を出さ れたとか、お医者さんから言われた数と違うとかいう クレームはよくあります。こちらが間違えたのなら申 し訳ないと思いますが、実はお医者さんが間違えてい たり、あるいはお医者さんの話をちゃんと聞いていな かったことも多いんです。この前なんか、風邪で病院 に行った患者さんにフェキソフェナジンを出したら、 ご家族から電話があって、風邪で鼻水が出ているのに、 どうしてアレルギーの薬を出すんだって怒られちゃい ました」  あっ、フェキソフェナジンというのは一般名で、商 品名はアレジラです、と刑部さんは言い添える。その 名前は知っていた。男性アイドル歌手がテレビCMを やっている。  「風邪の鼻づまりでアレルギーの薬を飲んでもいいん ですか」  爽太は素朴な疑問を口にした。  「もちろんですよ。風邪の諸症状は体に侵人したウィ ルスに対する免疫反応ですからね。軽度の症状であれ ば、アレジラのような抗ヒスタミン薬が有効です」  「なるほど。勉強になりました。それなら今度、風邪 を引いたらアレジラを飲んでみます」  爽太が言うと、刑部さんは眉根をよせて、  「ダメですよ。勝手な判断はしないで医師や薬剤師に 相談してください」と言った。  「ああ、そうか。わかりました。気をつけます」爽太 は思わず頭を掻いた。  「患者さんがみな水尾さんのように聡明で素直だと楽 なんですけど」  信号が青になって人の波が動き出す。刑部さんは意 外とお喋り好きなようだった。  「さっきのクレームの人に同じ説明をしたんですが、 なかなか納得してくれなくて……。いえ、納得してく れないというか、変なことを言われて困りました。ア レルギーでもないのに薬を飲んで、それが原因でアレ ルギーになったらどうするんだって怒られました」  「えっ、どういう意味ですか」  話を切り上げるタイミングを見つけられず、一緒に 歩きながら爽太は訊いた。アレルギーの薬を飲んでア レルギーになるなんて話は聞いたこともない。  「私にも意味がわかりません。どうやらその人、アレ ルギーの薬を飲むと、体がアレルギー体質になると本 気で信じ込んでいるようでした。たぶん理屈じゃなく てイメージなんだと思います。薬の効果や副作用をイ メージだけで判断した結果、そういう考えを持つよう になったんだと思います」  言われてみると、なんとなく理解できた。  「ホメオパシーと同じですね。科学的には何の効果も ないとされているのに、イメージだけで効果を信じる 人がいる。今の話はその逆でイメージだけで薬を毛嫌 いしている人がいるということですか」  爽太が頷くと、刑部さんは不思議そうな顔をした。  「ホメオパシーなんてよく知っていますね。もしかし て毒島さんの影響ですか」  「えっ、いや、そういうわけじやないですが」  「誤魔化さなくてもいいですよ。……あっ、もしかし て」刑部さんは何かを思いついた顔になる。  「毒島さんと間違えて、私に声をかけたわけですか」  「えっ、いや、違います。そうじやないですよ」  慌てて否定したが、刑部さんはふふんと鼻を鳴らす と、「誤魔化さなくてもいいですよ。全部、方波見さ んに聞いて知ってます」とこともなげに言った。  説明を聞いて気が抜けた。ホテルーミネルヴアのフ ロントの人が毒島さんに気があるみたいだから、訪ね てきたら優しくしてあげて、と方波見さんに言われて いたらしいのだ。コーヒーショップで方波見さんに声 をかけたことも、爽太がどうめき薬局を訪ねて直接お 礼を言ったことも刑部さんは全部知っていた。  「そうだったんですか」  そう言ったところで自分がするべきだったことを思 い出した。こうして刑部さんと話している間に、毒島 さんに帰宅されてしまっては意味がない。  「あの、すいません。僕はそろそろI」と爽太は言 いかけた。  「慌てなくても大丈夫です。私か戻るまで、毒島さん が帰ることはないですから」  爽太の考えを察したように刑部さんは言った。  「えっ、そうなんですか」と口にしてから、しまった、 つい本音を言ってしまったとほぞを噛む。  「刑部さんはどこまで行くんですか」開き直って訊い てみる。 「四ツ谷です」  四ツ谷はJRで飯田橋のふたつ先だ。 「今回はどんなクレームなんですか」 「それがひどいんですよ。ウチが薬を少なく出したか ら、足りない分をすぐに持って来いって言うんです。 でもそんなはずはないんですよ。薬を渡すときは、患 者さんの前できちんと数を確かめるようにしているん です。でも説明してもダメで、薬を家に持って来てと だけ言って電話を切っちやったんです。折り返しの電 話をかけても応答がなくて、それで仕方なく私か行く ことになったんです」  刑部さんは改札の手前で立ち止まって話を続ける。  「それでこの雨の中、薬を届けに行くわけですか」  「それも違います。薬は持って来ていないんです」  「薬を持たずに行くんですか」と言ってから、あるこ とを思いついた。  「もしかして毒島さんの指示ですか。処方箋のない薬 を出せないことを説明してきなさい、と言われたと か」  爽太の言葉に刑部さんは苦笑いのような表情を浮か べた。  「半分だけ正解です。今回はもうひとつ指示を受けま した」  もうひとつの指示とは何だろう。それを訊こうとし たところで、「私そろそろ行かないと」と刑部さんは 言った。駅のデジタル時計は五時三十分を表示してい る。  「ああ、そうか。すみません」  「それとも途中まで一緒に行きますか」  「僕が行ってもいいんですか」  「私は別に構いませんけど」  「わかりました。じやあ、行きます」  これ幸いと刑部さんに続いて改札をくぐる。うまく 話を振って毒島さんの情報を聞き出そう。そんなこと を考えていると、「是沢クリニックで誤診をされたそ うですね」と刑部さんが訊いてきた。  「はい。そうです。それも方波見さんから聞いたんで すか」  「とりあえずさわりだけ聞きました。あそこ評判が悪 いんですよ。何かあったかを訊いてもいいですか」  ホームで電車を待つ間にその話をした。話が終わる と、「あそこはいつもそうなんですよ」と刑部さんは 顔をしかめた。  「あの院長は最悪です。偉そうで、威張ってて、疑義 照会をしても、薬剤師は余計な口を出さずに黙って薬 を出してりやいいんだって態度がありありなんです。 本当にあそこの処方箋を扱うのは嫌になりますよ」  刑部さんは憤懣やるかたないという口調で言い募る。 またわからない言葉が出てきたので訊いてみた。  「疑義照会って何ですか」  「処方箋に疑わしい点があるとき、発行した医師に問 い合わせをすることです。法律で決められていて、そ れをしないと調剤してはいけないんですよ」と刑部さ んは教えてくれた。  「そんな法律があるんですか。でも是沢院長の処方箋 はそんなに間違いが多いんですか」  「多いですね。でもそれはそうだと思いますよ。一人 であれだけの多くの科目の患者さんを診ているんです から。内科以外の薬のことはほとんどわかってないと 思います。もっともうちに処方箋がまわってくること はあまりないんです。近くに別の調剤薬局があって、 そちらに行く人が多いみたいです」  そこで爽太はあることに気がついた。  「もしかして是沢クリニックの処方箋を持って行った から、毒島さんは自分を気にして声をかけてくれたん でしょうか」  「その可能性はありますね。毒島さん、是沢院長を 嫌っていますから。志がなくて、金儲けにしか興味の ない医者だって、いつも文句を言ってます。というか、 まわりであの院長を好きな人はいませんけどね。クリ ニックで働く看護師さんや事務さんたちも、陰では俺 様院長って渾名で呼んでいるようですし」  言い得て妙な渾名だった。ホームに電車が入ってき た。いいタイミングだと思い、爽太は話題を変えた。  「ところで刑部さんはどうめき薬局に勤めて長いんで すか」一緒に電車に乗り込みながら訊いてみる。  「まだ半年です。去年、大学を卒業して、大手の調剤 薬局に入社したんですけど、色々あって、この春に転 職したんです」  薬学部は六年制だ。去年、大学を卒業したというこ とは、浪人や留年をしていなければ、刑部さんは今年 で二十六歳になる計算だ。  「毒島さんはその前からどうめき薬局にいたわけです か」  「そうですけど、毒島さんもそんなに長くはないです よ。今年の初めからなので、私より三か月だけ先輩で す。年は三つ上ですけどね」  「意外ですね。もっと長くいるような感じがしますけ ど」  ということは、毒島さんは今年で二十九歳になるわ けた。「やっぱり毒島さんのことが気になりますか」 刑部さんがふいに笑った。  「いや、そういうわけではないですが」  「なんだったら毒島さんのことをもっと教えてあげて もいいですよ」  何と答えていいのかわからない。刑部さんは窓の外 に目をやって、「あっ、もう四ツ谷ですよ」と言った。 ホームに着くや、刑部さんはさっさと電車を降りて歩 き出す。遅れないように爽太も慌てて後を追った。人 混みに流されるように階段を上る。刑部さんは周囲を 見まわした。駅の構内は帰宅する学生や会社員でごっ た返している。  「あそこでお茶をしませんか」道路沿いにあるコー ヒー店の看板を指さした。  「でもクレーム対応があるのでは」  「六時から六時半の間に来てくれ、と相手の方に言わ れているんです」  時計を見ると五時四十分になったところだ。  「早めに出て、どこかで時間調整をするつもりだった んです。さぼりとかそういうことではないですよ」  「わかりました。じやあ、お茶をしましようか」  「あともうひとつお願いが」刑部さんは爽太に向かっ て拝むように手を合わせた。  「その後で、患者さんの家まで一緒に来てもらっても いいですか」  「僕がですか」意外な申し出に爽太は困惑した。  「事情が事情なだけに、一人で行くのが怖いんです。 正直なところ、水尾さんに声をかけてもらってラッ キーと思いました」  「行くのは構いませんが、でも僕が行ってもいいんで すか」  「大丈夫ですよ。土曜日は毒島さんがホテルに行った じやないですか。それの逆パターンだと思えば、何の 問題もありません」  いや、全然違うと思いますが、と言いかけて、「わ かりました」と爽太は頷いた。  「毒島さんを匸冐で言えば薬オタクですね。本人は否 定しますけど、私からすればそれ以外に表現する言葉 は思い浮かびません」  刑部さんはきっぱりと言った。会社員や学生で混み 合うコーヒーショップのカウンター、刑部さんの前に はロイヤルミルクティーが湯気を立てている。  「やっぱり同じ薬剤師の目で見ても、毒島さんは特殊 なんですね」  「申し訳ないですが、薬剤師というくくりだけで一緒 にされると困ります。あっ、でも毒島さんを馬鹿にし ているわけではないですよ。その逆で、とても真似で きないというリスペクトを半分だけは込めています」  半分は逆の感情と言うことか。  「真似できないというのは、薬の効き目を自ら試すよ うな行動をするところですか」  睡眠薬やホメオパシーを試してみたという話を思い 出して、爽太は訊いた。  「そうです。普通はそこまではしませんよ。それ以外 にも毒島さんの薬に対する入れ込み方はすごいです。 四六時中、薬のことを考えています。いえ、薬だけ じやありません。スパイスや(Iプのみならず、観葉 植物や道端の草木まで、その成分や効能、副作用に興 味をもっているような節もありますね」  セントジョーンズワードのことを思い出す。  「すごいですね。でも本人は薬オタクと言われると否 定するわけですか」  「真顔で否定されました。オタクというのは、趣味と して自分の好きな事柄に入れ込んでいる人の総称であ り、自分は趣味として薬に興味を抱いているわけじゃ ない、というのがその理由です」  「ということは薬オタクではなく、仕事中毒のような 感じでしょうか」  「仕事以外の私生活も真面目ですけどね。恋人がいる ような気配もないですし、成人して以来、選挙には欠 かさず行っていると言ってました。私か一度も行った ことがないと言ったら、信じられないという顔をされ ました」  はあ、選挙。イメージは湧かないが、やはり根本的 に真面目ということか。それにしてもやはり恋人はい ないのか。それを聞いて、とりあえずほっとした。  しかし刑部さんの次の言葉に、爽太は飛び上がるほ どに驚いた。  「ああ見えて、大学時代にはミスコンの準グランプリ になったこともあるわけですから、その気になれば恋 人なんていくらでも作れると思うんですけれど」  ミスコンの準グランプリとはどういうだろう。聞き 間違いかと思ったが、それを問うと刑部さんは驚いた 顔をした。  「あれ、方波見さんから聞いてないですか」  「……聞いてないです」  たしかに顔立ちは整っているが、化粧気がなく、服 装や髪形も地味で、そう言われてもにわかには信じら れない。  「毒島さんは多摩薬科大学を卒業しているんですけれ ど、方波見さんがたまたまそこのホームページを見て いて過去の記事で見つけたんです」  刑部さんはスマートフォンを取り出すと、そのペー ジを検索して爽太に見せた。  大学祭で開催されたミスコンテストの歴代の人賞者 を掲載したページだった。  『二〇××年のミスコンは例年にない(イレベルな戦 いとなりました。準グランプリに輝いたのは、薬学部 三年の毒島花織さんです』  そこに掲載されている写真を見て驚いた。肩の出た 白いドレスに、ミス多摩薬科大学準グランプリと書か れたタスキをかけて、にっこりとほほ笑む若い女性は、 間違いなく毒島さんだったのだ。眉は細く整えられて、 目の縁にははっきりと濃いアイラインが引かれている。 頬ばチークでほんのり赤く染まり、唇は控えめなピン ク色。すらりとしたプロポーションと合わせてその容 姿は、ミスコンの準グランプリにふさわしいものだっ た。  「信じられません。あの毒島さんにこんな過去がある なんて」  「でも本人は、頑なに認めようとはしないんですよ。 この写真を見せて、これは毒島さんですよねと言って も、知りません、の一点張りです。どうやら本人は隠 したい過去、黒歴史だと思っているようですね」  「ミスコンの入賞が黒歴史って、どういうことです か」  わけがわからず爽太は訊いた。普通であれば誇らし く、自慢したい過去だと思うけど。  「それは私の方が訊きたいですよ。だから理由は水尾 さんが探ってください。仲良くなればきっと話しても らえると思います。だから頑張って聞き出して、後で その理由をこっそり教えてくださいよ」  刑部さんは悪戯っぽく笑ってから、壁の時計に目を やった。  「あっ、いけない、そろそろ行かないと」  時計の針は六時を過ぎている。 「わかりました。行きましよう」  爽太は手をつけていなかったコーヒーを一気に飲み 干した。  コーヒーショップを出ると雨はやんでいた。大通り を離れ、細い道を進む。煤けたような板塀の横を曲 かって細い路地に入ると、街路灯が少ないせいか、い きなり闇が濃くなる印象があった。手入れをされてい ない生垣が、道路をふさぐように枝を伸ばしている。 そこは人が住んでいる気配が感じられない古びた住宅 地だった。  「ところでどうめき薬局って男の薬剤師さんはいない んですか」爽太はそんなことを訊いてみた。  「いないんですよ。常駐の薬剤師は、私と方波見さん と毒島さんの三人だけです。あとはパートと派遣の人 で賄ってます。社長も薬剤師免許を持っていますけど、 よほどのことがない限りお店に出ることはないです ね」  「女性だけだとクレーム対応も大変ですよね。でもど うめき薬局というのも変わった名前ですけど」  「社長の苗字が百目鬼というんですよ。珍しい苗字の せいで子供の頃にいじめられた経験があるとかで、薬 剤師も珍しい苗字の人を優先的に採っているらしいで す」  「はあ、なるほど。それで方波見と刑部と毒島です か」  とりとめのない話をしながら路地を歩く。しばらく 歩くと林と表札の出た一軒家の前に出た。古びてはい るか、門構えも大きく、裕福そうな家だった。門に扉 はついてない。踏み石を歩いて母屋に向かう。玄関に 着くと刑部さんがインターホンを押した。ブザーが 鳴った気配はあるが応答する声は聞こえない。  「おかしいな。言われた通りの時間なのに」  時計の針は六時十五分を指している。二度三度とイ ンターホンを押したが結果は同じだった。  「どうしますか」  「待つしかないですね」  踏み石を辿って門の外に出る。囗は暮れてあたりは 闇に包まれている。通りを歩く人影はなく、軒を並べ ているのは同じように古びてくすんだ雰囲気のある家 ぽかりたった。  「つかぬことをお訊きしますが、その林さんという方 は高齢の方ですか」かすかな不安を覚えて爽太は訊い た。  「七十代の女性です。ウチの薬局にずっと通っている 方で、普段は物静かな方なんですが、今日に限って様 子がおかしかったんです。すごい剣幕で、『林だけど、 この前もらった薬が足りなかったのよ。悪いけどすぐ に持って来てちょうだい』つて一方的にまくしたてら れて」  刑部さんは吹く風に身をこわばらせながらクレーム の内容を説明してくれた。  林さんからのクレームを受けて、刑部さんはすぐに レセプト管理用のパソコンー通称レセコンで投薬の 記録を調べた。三週間前に不整脈や高血圧の薬が複数 出されていた。そのうちの一種類の薬が足りない、と 林さんは言ったのだ。  「こちらの記録では、正しい分量をお出ししたことに なっていますが」と刑部さんは林さんに答えた。  「そんなことは知らないわよ。現に薬は足りないんだ から」  「恐れ入りますが、もう一度、確認していただけない でしょうか」  「なによ。私か間違えたって言いたいの? この薬は ずっと飲んでいるから、間違えたりしないわよ」林さ んの口調に怒気が混じる。  「どこかにしまい忘れたということは?」  「薬くらい自分でちゃんと管理しているわよ。それと も私か耄碌して、自分でなくしておきながら、そっち のせいにしているって言いたいの’・」 「いえ、そういうことではないですが、もしもという ことが」  「もういいわ’・ いいから早く持って来なさいよ。薬 を飲めなくて具合が悪くなったら、あんたのところの 責任だからね’・ これから出かける用事があるから六 時から六時半の間に必ず持って来て。毎日、その時間 に薬を飲んでいるんだから絶対よ’・ もし遅れたら、 あそこの調剤薬局は不親切で、いい加減だって保健所 に言いつけてやるから覚悟しなさいよ’・」  ガチヤンと音がして電話は切れた。これまでもク レームの電話を受けたことはあるが、ここまで頭ごな しに言われたのははじめてだった。  すぐにその電話の内容を方波見さんと毒島さんに報 告した。三週間前に投薬をしたのは方波見さんだ。年 を取ると自然と物忘れは起こるし、高齢で一人暮らし の患者さんの中には、自覚がないままに認知症を恣っ ているケースもある。しかし方波見さんはその可能性 を否定した。  「話をした限りでは、そういう感じはなかったわね。 何種類もの薬を飲まないといけないから、間違えない ように工夫していると言っていたわ。家に帰ると薬を シートごと切り離して、囗にちと時間を書いた透明な ポケットに入れておくんですって」  レセコンを操作して、過去の薬歴を辿っていた毒島 さんが、過去にも同じようなことがあったようですね、 と呟いた。  「一年ほど前に薬の数を間違えて出したことがあった ようです。そのときはこちらの手違いだったので、足 りない分をその囗のうちに自宅に届けています。その ことがあっだので、今度もウチのミスだと思い込んだ のかもしれません」  管理薬剤師である方波見さんが、林さんの自宅に電 話をした。しかし留守電に切り替わって応答はない。 用事があると言ってたから、外出しているのかもしれ ない。それで三人でどうするべきかを相談した。薬局 のミスでない以上、処方箋もなく薬を出すわけにはい かない。しかし事情が事情なだけに無視も出来ない。 それで電話を受けた刑部さんが自宅まで説明に行くこ とになったのだ。  「そういう事情ですか。でもそれなら時間になっても  応答しないというのは変ですよね」  刑部さんの話を聞き終わり、爽太は周囲を見まわし た。あたりはひっそり静まり返っていて、歩いている 人影も見当たらない。時計を見るとすでに六時二十分 を過ぎている。  「林さんは一人暮らしですか」  「方波見さんが聞いたところではそのようですね」  「複数の薬を飲んでいるということでしたが、どんな 病気を恣っているんでしょう」  「それは個人情報なので言えません。というか、私だ ちも病名は知らないんです」  「え? 薬を出しているのに病名を知らないんです か」  言葉の意味を測りかねて、爽太は刑部さんを見た。  「処方箋に診断名は書いてありませんから。院内処方 なら情報が医師からまわってくるようですが、院外処 方の場合、患者さんに直接確かめるしか、それを知る 方法はありません」と刑部さんは肩をすくめて説明し た。  是沢クリニックからもらった処方箋を思い出す。た しかに薬の名前と分量が書かれているだけで、病名は どこにも書かれていなかった。それでも爽太は、処方 箋を薬剤師に出すのが恥ずかしかった。薬の名前を見 れば、それが水虫の薬だとわかると思ったせいだ。  しかしそれを言うと刑部さんは首を横にふった。  「薬から診断名を当てることは難しいですよ。たとえ ばアスサットという薬の主成分はラノコナソールです が、これには抗真菌作用があり、用途としては白癬菌、 カンジダ症、癜風などの治療に処方されます。つまり その処方箋を見て、真菌性の病気にかかったことはわ かりますが、それが白癬菌なのか、カンジダ症なのか、 癜風なのかは、患者さんに聞かない限りはわからない んです」  目から鱗が落ちるとはこのことだ。よく考えてみれ ば当たり前だが、思い込みというのは奇妙なもので、 処方箋を見れば薬剤師にはそれがわかると思っていた のだ。  それを言うと、刑部さんはさらに大げさに肩をすく めた。  「魔法使いじやあるまいし、そんなことは不可能です よ。世の中にどれだけの病気があると思っているんで すか。内科、外科、小児科、泌尿器科、皮膚科、耳鼻 科、精神科、整形外科、歯科−医師はそれぞれに専 門の分野がありますが、薬剤師は一人ですべてを賄っ ているんですよ」  薬剤師の仕事とは、様々な分野の薬の相互作用や禁 忌を把握して、その患者さんに沿った注意事項やアド バイスを与えることだ、と刑部さんは教えてくれた。 知識を蓄え、経験を積む中で、処方箋を見ただけで病 名のみならず、医師がどういう理由でその薬を出した のかを推測する能力が育まれてくるそうだ。  それを聞いて、毒島さんが優れた洞察力を持ってい る理由がわかった。薬剤師という職務に就くことで 日々、推理する力が磨かれていたわけだ。処方箋から 病名を推理するなんて探偵みたいで恰好いい。しかし そこで、待てよ、と考えた。  「あの、推理しなくても、患者さんに訊いたり、医者 に問い合わせれば、一発でわかることじやないです か」  「それが出来れば楽ですよ」刑部さんはやれやれとい う風に手を広げる。  「薬剤師がそれを質問すると、嫌な顔をする患者さん がいるわけです。医者にIから十まで説明してきたの に、どうしてまた同じ説明をここでしなければいけな いんだって、怒り出す人だっているくらいです」  言われてみると心当たりがある。病院に行った後で、 また調剤薬局に行くことがそもそも面倒なことなのだ。  「じやあ、処方箋を書いた医者に直接訊くのはどうな んですか」  「お医者さんからすれば、次の患者さんが待っている ので、余計な時間を取られたくないという事情がある んです。処方箋に不備があって、疑義照会をしただけ でも嫌な顔をされるんですよ。処方箋が来るたびに、 患者さんがどんな状態で、この処方箋にはどんな意図 があるんですか、と訊くことなんかできません」  是沢院長の顔が思い浮かぶ。なるほど。そんなこと を訊いたら、頭ごなしに怒鳴られそうだ。それでいて、 患者に病名を訊いたら訊いたで嫌な顔をされるのか。  「それなら処方箋に病名を書くとかすればいいので は」  「個人情報の問題があるので難しいようですね」  しかし薬を処方してもらうに当たって、薬剤師が正 しい病名を知らないとは驚きだった。薬剤師の能力次 第で、適切なアドバイスをもらえるかどうかが決まる ということになる。つまりは医師のみならず、薬剤師 にも当たり外れがあるということか。  「ということは、僕は毒島さんが担当してくれて幸運 だったわけですね。もし別の人に当たっていれば、い まだに是沢クリニックに通って、効かない薬を塗り続 けていた可能性もあるわけか」  そう言ってから、はっとした。聞きようによっては 他の薬剤師に対する嫌味にも聞こえる。横目で見ると、 案の定、刑部さんはムッとした顔をしていた。  「そうですね。たしかに私か担当していたら、そんな ことには気がつかなかったかもしれません」と口を尖 らせる。  「いや、そうじゃなくて、僕が言いたかったのは I」と口にして、そこで大事なことを思い出した。 そうだ。自分が本当にしたかった話は別にある。  「すみません。話がそれました。僕が林さんの病名を 訊いたのは理由があります。応答がないのは、家の中 で倒れている可能性があるのでは、と思ったんです」  「倒れたって、どうして。……あっ、薬がなかったせ いですか」刑部さんはぎよっとした顔をする。  「家に呼びつけておいて、インターホンを鳴らしても 出ないのはおかしいですよ。それでさっき林さんの病 名のことを訊いたんです」  薬剤師は患者の病名を知らない、と聞いてすっかり 話がそれてしまったのだ。  「だって夕方に飲むから六時から六時半の間に持って 来て、と言われたんですよ。いくらなんでも倒れるの が早すぎますよ」  「でも、もしもということもありますよ」  刑部さんはぎゅっと唇を噛んでから、身を翻して母 屋に向かった。爽太も急いで後を追う。刑部さんは再 びインターホンを押したが、応答する声はない。  「林さんが足りないと言っていたのは不整脈を抑える 薬なんです。ずっと飲んでいないとすれば命に関わる 危険があります」  どうしよう、と言いながら、刑部さんは続けざまに インターホンを押した。  「救急車を呼んだ方がいいでしょうか」  かなり慌てているようだ。当事者でないだけ、まだ 爽太は冷静だった。  「まずはどうめき薬局に電話して、毒島さんに指示を 仰いではどうですか」  「ああ、そうですね。そうしましょう」  刑部さんはスマートフォンを取り出し、あれ、と呟 き、手を止めた。  「二十分ほど前に薬局からの電話があったようです。 サイレントにしていたから気づかなかったけど、もし かして林さんから連絡があっだのかなI」  刑部さんがスマートフォンを操作しようとしたとき だった。  突然、林さんの家のドアが開いて、「うるせえぞ’・ お前ら、人の家の前で何を騒いでいやがるんだよ’・」 と怒鳴る声がした。  男がドアノブを握って立っている。二十歳前後の刺 繍入りの黒いジャージを着た男だった。目つきが悪 く、鼻にピアスを入れている。  「何度もブザーを押しやかって’・ こんなもの一度押 せばわかるんだよ’・ ちっとは迷惑ってもんを考え ろ!・」  突然のことに刑部さんは完全に固まっている。「あ、 あの、私」舌がもつれたようで言葉が出てこない。  「なんだ、お前ら’・ 用があるなら早く言え’・」男は さらに大声を出す。  「あの、私はどうめき薬局から来た薬剤師です。林マ キ子さんにお会いしたいのですが」刑部さんがかすれ た声で言う。  「薬局? ああ、そういえば薬を持って来るとか言っ てたな。わかった。渡してやるよ。ここに出しな」男 はごつい金の指輪がはまった大きな手を差し出した。  「いえ、薬を持って来たわけではありません。お話が したくて来たのです」  「なんだ。そりゃ。話なら電話ですればいいだろう が」  「したんです。でも応答がなかったので、こうして 伺った次第です」  「しようがねえな。それなら俺から伝えてやるよ。そ の話というのを言ってみな」  「いえ、それは」刑部さんは困ったように首を縮める。 「大事な話なので、直接ご本人にしたいのですが」  「婆さんは寝てる。俺は孫だ」  男はズボンの尻ポケットから鎖のついた長財布を取 り出し、運転免許証を抜き出した。刑部さんに突きつ ける。林直樹という名前が爽太にも見えた。顔写真も 男の顔立ちと合っている。  「オレオレ詐欺なんかじやねえぞ。本物の孫だ。そう いうことだから、その用件ってやつを言ってみな」男 は免許証を財布にしまった。  「すみませんが、そういうわけにはいきません。大事 なことなので、どうしてもご本人に会って話をしたい んです」刑部さんの声は心なしか震えている。  「寝ている婆さんを起こせって言うのかよ。それはダ メだ。斷る。まあ、言いたくないならそれでもいいさ。 婆さんには薬剤師が来たってことは伝えておいてや る」  吐き捨てるように言うと、男はそのままドアをばた んと閉めた。止める暇もなかった。玄関の前で爽太と 刑部さんは呆然として顔を見合わせた。「どうしま しよう」途方に暮れたように刑部さんが言う。  「とりあえず薬局に電話してみますか」  「いえ……。いないならともかく、いるならとりあえ ず本人に会わないと」  刑部さんは再びインターホンに手を伸ばし、続けざ まにボタンを押した。  「またあの男が出て来て怒鳴られますよ」  爽太ははらはらしたが、刑部さんは躊躇しなかった。  「だって時間を指定しておいて、寝ているなんておか しいですよ。何か理由があるんだと思います。それが 薬のせいだとしたら、放っておくわけにはいきませ ん」  どうやら見かけ以上に責任感があって、腹も据わっ ているようだ。十同ほどインターホンを押すと、男が 再びすごい勢いで扉をあけた。  「てめえら、いい加減にしておけよI’・」  「大事なことなんです。どうしても林さんに確認した いことがあるんです」刑部さんは必死に食い下がる。 「やかましい’・ 婆さんは寝てるって言ってるだろう が’・ さっさと帰れ’・ これ以上、ぐだぐだ言うなら 力ずくで追い出すぞ’・」  殴りかからんばかりの形相で男はがなりたてる。  「話を聞いてください」  爽太はたまりかねて男と刑部さんの間に割って入っ だ。部外者だから一歩引いていたが、こうなったら 黙っているわけにはいかない。  「この女性は薬剤師です。林さんの体調を心配してこ こまで訪ねて来たんです」  「うるせえな。薬剤師だろうが医者だろうが、そんな ことは関係ねえんだよ」  男は威嚇するように握った拳を爽太の前に突き出し た。殴られるかと身を固くして、その拳を凝視する。 関節のあたりに赤黒い汚れがあった。ぎよっとした。  「それって血ですか」男の拳を見据えて爽太は言った。  「なんだと」男は自分の拳に目をやって、ぎよっとし たように引っ込める。  「どうして林さんは寝ているんです。具合が悪いんで すか。それとも怪我をしているんですか」爽太は言っ た。  「馬鹿野郎。これは鼻血だよ。婆さんが鼻血を出して、 その後始末をしただけだ」  男は明らかに慌てていた。「もういい。さっさと帰 れ」と扉を閉めようとする。爽太はとっさにドアノブ を握った。  「待ってください。林さんに会わせてください」  「ふざけるな’・ お前らには関係ないことだろう が’・」  男が叫ぶ。そのとき背後に人の気配がした。刑部さ んに誰かが話しかけている声がする。もしかして近所 の人が騒ぎを聞きつけて来てくれたのかな。助けにな るといいんだけど。そんなことを考えたとき。  「すみません。ウチの刑部がご迷惑をおかけして」と 声が聞こえた。  首を巡らすと白いレインコートを着た毒島さんが 立っている。どうしてここにと思う間もなく、「林さ んのお孫さんですね。私、どうめき薬局の毒島といい ます。林マキ子さんが服用している薬について、至急 お話ししたいことがあります」と喋り出す。  「今日の夕方、林さんから薬局に、前回受け取った薬 が少ないと電話がありました。薬局が数を間違えたか ら、足りない分を持ってきてちょうだい、とのことで した。林さんが服用している薬は二種類あります。ひ とつはロルバスクといって高血圧や狭心症の治療に使 われる薬。もうひとつはジベノールといって不整脈の 治療に使われる薬です。しかし薬局の在庫を調べた結 果、数は合っているとわかりました。だとすると薬が 足りないのは、薬局が間違えたのではなくて、林さん がなくしたか、飲み間違えたことが原因になります。 なくしたならいいのですが、間違えて多く飲んだため に数が足りなくなったとしたら、別の問題が発生しま す。肝臓や腎臓の機能が柢下した高齢者には、ジベ ノールは副作用が発現しやすいというデータがあるの です」  男は呆気に取られたようにぽかんと口をあけている。  「ジベノールは一般名をシベンソリンコ(ク酸塩と いって、心臓の筋肉の異常な収縮を抑える働きがある 薬です。ただし過量投与した場合は、O、T延長から心 室頻拍、心室細動へと移行して、突然死に至る恐れが あります。QTというのは心筋室の電気的興奮のはじ まりから終わりまでの時間のことで、O、Tが延長する 原因としては薬物の影響が関係する割合が高いので す」  「うるせえ’・ やめろ’・」  フリーズが解けたように、男が声をあげた。  「わけのわからない話をクタクタとしやかって’・ ふ ざけるな’・ なんなんだよ、お前ら’・ 次から次へと 現れやかって、俺にはそんな話はどうでもいいんだよ。 そんなくだらない話は聞きたくねえんだ。もういいか らとっとと消えろ’・ 出て行かないなら警察を呼ぶぞ。 お前ら、それでもいいのかよI」  と言いかけた男の顔が強張った。  「お取り込み中、失礼します。こちらで何かありまし たか」  また背後から声がした。今度は男の声だ。首をめぐ らせて後ろを見ると、制服姿の警官が立っている。  「近所の方からこちらのお宅が騒がしいと連絡があり ました。すみませんが事情を聞かせてもらってもいい ですか」  「−あの、私は薬剤師です。こちらのお宅に住んで いる高齢の女性に会うために来たところです。どうし ても本人に会って確かめたいことがあるんです。でも こちらのお孫さんがそれを許してくれなくてI」  一番後ろにいた刑部さんが、飛びつくように警官に 事情を説明する。  「なるほど。それで他の方はI」警官は爽太たちの 顔を見渡した。  「この女性は同じ薬局の先輩です。こちらの男性は、 念のために付き添ってもらった知り合いです。それで そちらがこの家の住人のお孫さんです」  「そういうことですか。そちらの方、お祖母さんに会 わせてあげるわけにはいかないのですか」警官は男に 質問をした。  「いや、婆さんは寝ているから、起こすのは可哀想と いうか、そういうことで」  さっきまでの勢いが嘘のように、男は横を向いて、 ごによごによと口にする。警官はその場にいた四人を もう一度見渡してから、あらためて毒島さんの顔を見 た。たぶんこの四人の中で一番落ち着いていて、話が 出来るように見えたのだろう。  「失礼ですが、身分証はお持ちですか」  「名刺なら」毒島さんはレインコートのポケットから 名刺を取り出した。  「……どうめき薬局のドクシマさん?」警察官が ぎよっとした顔になる。  「ドクシマではなくブスジマです」  「ああ、失礼。それで、そちらの方は何か自分を証明 するものをお持ちですか」  「今はない」  「あれ、さっき財布の中に運転免許証がありましたよ ね」爽太が言った。  男はすごい形相で爽太をにらみつけ、「今はねえよ。 さっき部屋に置いてきた」と言い捨てた。  「念のため名前と生年月日を伺ってもよろしいです か」  穏やかだが有無を言わせない口調で警察官が言う。 男は舌打ちすると、  「−わかったよ。婆さんを起こして連れてくればい いんだろう。連れてくるよ。連れてくる。だからここ で大人しく待ってろよ」と半開きのドアをそのままに、 身を翻して家の中に消えた。  「最初からこの三人でこちらを訪ねられましたか」警 官は毒島さんに質問した。  「私はさっき来たところです。最初に来だのはこの二 人です」  「そうですか。では、そちらの方にちょっとお訊きし たいことがあるのですが」  警官は刑部さんに向き直って、最初にここに来た時 間を質問した。刑部さんがそれに答えている間、爽太 は毒島さんの耳に口を近づけた。  「あの、毒島さんはどうしてここに来たのですか」  「林さんの話に気になることがあったので」と言いな がら、逆に不思議そうに爽太の顔を見る。「そう言う 水尾さんこそ、どうしてここにいるのです」  「えIと、偶然です。仕事を終えて帰ろうとしたとこ ろで刑部さんと偶然会って、話をしているうちに、な んとなく足を運んでしまった、という感じです」  まさか毒島さんの話を教えてもらう条件でついてき たとは言えない。  「−何か、あったんですか」  また声がした。道路に主婦らしい女性が立っている。  「こちらの林さんとお会いしたいのですが、孫だとい う男性がなかなか会わせてくれないんです」爽太の言 葉に、主婦は不安そうに顔を曇らせた。  「そのお孫さんつて、二十歳くらいの鼻にピアスをつ けた人ですか。私、隣に住んでいる者ですけど、お金 がなくなると小遣いをせびりに来るので困っていると、 前に林さんから聞いたことがあります」  爽太は毒島さんと顔を見合わせた。そういうことな ら事情が変わってくる。あけっぱなしのドアから家の 中を覗いた。廊下の奥はしんと静まり返って、誰かが 出て来る気配はない。そういえばあの男の手に血らし き痕があった。鼻血と言い訳をしていたけれど、もし かしたら林さんを殴った痕かもしれない、と思い当た る。  刑部さんとの話を終えた警察官にそのことを伝えた。 警察官の顔に緊張が走る。  「林さん、いらっしゃいますか、林さん」と玄関の前 に立って警察官が呼ぶ。しかし出て来るどころか、そ れに応える声もない。孫を名乗る男も戻って来なかっ た。  「中に入るのはまずいですかね」と爽太は訊いた。  「はっきりした事情がわからないまま、勝手に上がる ことは出来ません」警察官は渋い顔をする。  「あの、私か見てきましようか」隣家の主婦だという 女性が申し出た。「普段からお互いに家を行き来して いるので、私なら勝手に入っても怒られることはない と思います」  「そういうことなら、お願いします」警察官が頷いた。  「今晩は。お邪魔します。林さん」主婦は靴を脱いで 上がり框に足をかける。「隣の佐藤です。人りますよ。 みなさんが心配しているので、顔を出してもらえませ んか、林さん」  皆が見守る中、恐る恐るといった感じで廊下を進む。  玄関を覗き込んだ毒島さんが、「あの孫を名乗る男 性、もうここにはいないかもしれないですね」と呟い た。  「どうしてわかるんですか」爽太は尋ねた。  「男性物の靴がありません。別の場所から外に出たん じやないでしょうか」  爽太は三和土を見た。そこにあるのは女性物のサン ダルや運動靴だけだった。  「でも林さんを呼びに行くと言ったとき、靴を持って 行くようなそぶりはありませんでしたよ」  「こうなることを予想して、事前に靴を持って行っだ のかもしれません」  「本当に孫なら、最初から他の出入り口を使っている 可能性だってありますよ」  「今日に限ってそれはないと思います」  毒島さんは三和土と傘立てを順番に指さした。三和 土の一部が水に濡れて黒くなり、傘立てには濡れたビ ニール傘が刺さっている。  「林さんが薬局に電話をしてきたのは四時前です。雨 が降り出しだのはその後で、林さんの靴はどれも雨に は濡れていません。それなのに三和土が濡れて、傘立 てには濡れた傘があります。つまり四時以降に誰かが この家に来て、玄関から家にあがった証拠です。それ でいて濡れている靴はどこにもない。他の場所から出 るために、履いてきた人物が持ち出したのだと思いま す。傘が残ったままなのは、雨があかっていることに 気がついたからでしょう。林さんは一人暮らしという ことですから、孫を名乗るあの男性以外に、それらの 行為をした人物はいないと思います」  理路整然と毒島さんは口にする。でも男が逃げたと したら、残された林さんはどうしているのだろうか。 そんなことを考えた瞬間、主婦の悲鳴が家の奥から聞 こえた。  「大変です。来てくださいI’・」  警察官の反応は速かった。素早く靴を脱いで、大股 で廊下を進んで家の奥に行く。爽太は一瞬躊躇した。 部外者である自分が勝手に他人の家に入っていいもの か。そんな爽太の迷いをよそに、毒島さんの行動は速 かった。靴を脱いで家にあがる。少し遅れて、爽太と 刑部さんも後を追いかけた。廊下を進んで奥の部屋に 入る。そこは居間のようだった。中はひどく荒れてい た。箪笥やサイドボードの抽斗はすべて引き出されて、 中身が床にぶちまけられている。雑誌、衣類、手紙、 ノート、食器、その他の細々とした物。散らばる品物 の真ん中に小柄な女性が横たわっていた。ぐったりと した女性の顔には殴られた痕がある。口元と頬にべっ たりと血がついていた。  「林さん、大丈夫ですか、林さんI’・」  動転した隣家の主婦が大声で呼んでいる。動かさな い方がいいです、救急車の到着を待ちましよう、と毒 島さんが横から声をかけている。警察官はあたりを確 認するように見まわしながら、無線で本部に連絡を 取っていた。  「大丈夫。これは鼻血で、もう止まっているわ」林さ んがうすく目をあけて呟いた。  「ああ、よかった。生きてたのね」佐藤さんがへなへ なとその場に座り込む。  「ごめんなさい。迷惑をかけて……。あなたは誰?」 毒島さんを見て、小さな声で林さんが言う。  「どうめき薬局の薬剤師です」  「薬を持って来てくれたのね。ありがとう。でも薬は あるの。嘘をついてごめんなさい。孫からいきなり電 話があって、これから行くから百万用意してくれと言 われたの。それで誰かに来てもらいたかったのよ。近 所の人に頼むのは忍びなくて、ついおたくに電話をし てしまったの。本当にごめんなさいね。こんなことに 巻き込んで」声をつまらせながら、ごめんなさい、と 繰り返す。  「気にしないでください。大事に至らず何よりでし た」と毒島さんはこんなときでも冷静だった。  「実は薬を持って来たわけではないのです。処方箋の ない薬は出せません。それを説明するためと、もうひ とつ大事なことの確認に来たんです」  毒島さんは顔をあげて刑部さんを呼んだ。刑部さん は、はっとしたように林さんのもとに駆け寄った。  「そのためにわざわざ来たんでしょう。大丈夫だと思 うけど、念のためもう一度確認してちょうだい」  刑部さんは、はい、と頷いた。  「あの、ご存知だとは思いますが、ジベノールは取り 扱いに注意が必要な薬です。薬を飲み間違えたのであ れば、主治医の先生に報告しなければいけません。そ の確認がしたくてここに来たんです。確認しますが、 薬はきちんと飲んでいらっしやいますか。飲み忘れた り、多く飲んだことはないですか」  「ええ、きちんと飲んだわ。大丈夫」と林さんは頷い た。  「そうであれば問題ありません。私たちの心配は杞憂 とわかりました。あとは警察の人にお任せして、これ で失礼することにいたします」  林さんはこくりと頷いて、ああ、もう、本当にあの 子ったら、と嘆息をした。  「お孫さんがあなたに暴力をふるって、金品を持ち 去ったわけですか。それでその男性はいまどこに?」 と無線連絡を終えた警察官が訊く。  「勝手口から出ていきました。博打で借金をこしらえ て、返す当てがなくなると、いつもお金をせびりに来 るんです。自分が育てた子供ならば、厳しく接するこ とも出来るけど、孫となると可愛いばかりで、ついつ い甘やかすことになってしまって」  ごめんなさいね、お嬢さん方を危険な目に遭わせて しまって、と言って、林さんはおいおいと泣きはじめ た。  刑部さんが言ったように、これで失礼します、とい うわけにはいかなかった。  強盗傷害事件になるかもしれないということで、林 さんが救急車で運ばれた後、それぞれにパトカーで警 察署に連れて行かれて事情を聞かれたのだ。結局、警 察から解放されたのは八時を過ぎた頃たった。  「今日はありがとうございます。水尾さんがいてくれ て心強かったです」  駅までの道すがら、殊勝に頭を下げる刑部さんに、 「いえ、とんでもないです。たいしたことは出来ない で申し訳ありません」と爽太は逆に謝った。 「私からもお礼を言います。もし彼女に何かあったら と思うと、ぞっとします。ついてきていただいて、本 当にありがとうございます」  毒島さんも刑部さんに続いて頭を下げる。  「やめてください。感謝されることじやありません。 ただの偶然ですから気にしないでください」  刑部さんに同行した経緯が経緯なので、そこまで謝 られると心苦しい。なんとか話題を変えたいと思い、 「それより毒島さんこそ、どうしてここに来たんです か。気になることがあったと言ってましたけど、まさ かこんなことになっていると想像したわけじやないで すよね」と口にした。  「もしかしたら危険なことがあるかもしれないとは 思っていました」  「どうしてわかったんです」驚いて爽太は訊いた。  「刑部が、林さんのお宅に伺うに至った経緯はご存知 なんですよね」  「はい。一通りの話は聞きました」  「それならお話ししますが、林さんは自分が飲む薬の シートを切り離して、日にちごとに分けていました。 ウチで薬の数を出し間違えたなら、それを分けた時点 で気がつくはずです。しかし林さんは、今日になって 薬が足りないと言ってきました。薬局の在庫が正しい ことから、足りない理由はご本人が飲み間違えたか、 紛失したかのどちらかだと思われます。林さんから電 話があった時点で、そこまでは理解しました。だから 刑部に、林さんの自宅に行って薬を飲み間違えていな いか確認するように、と指示を出したのです。そのと きはそれが最も重要な問題だと思っていましたから」  しかし患者が途切れて一段落したときに、話が変だ と思い当たったそうだ。  「林さんは、夜に飲む分がないと言ったそうですが、 ジベノールは朝昼晩の一日三回服用です。ということ は昼に飲んだとき、すでに夜の分がないことはわかっ たはずです。しかし林さんはそのときではなく、夕方 になって電話をしてきました。しかも、いつも夜は六 時から六時半に飲むから、その時間に届けてほしいと 言ったとか。その言い方にも違和感を持ちました。わ ざわざ三十分間に限定したことが作為的に思えたので す」  すべてを一方的にまくしたてて、こちらからのコー ルバックに一切出ないというのも変たった。精神疾患 を恣っている患者さんの中には、感情を抑えることが できずに、自分のこだわりや都合ばかりを優先させる 人もいる。しかしここまで林さんにそういう傾向はな かった。  「それで薬がないというのは口実ではないかと思った わけです。林さんはただ六時から六時半の間に誰かに 家に来てほしかった。しかし適当な人が思い浮かばず、 それでやむなくどうめき薬局に電話をした。どうめき 薬局では、過去に薬の数を間違えて、すぐに届けたと いう経緯があっだので、それを思い出して、頼りにし たのではないかと思ったんです」  それで刑部さんを一人で行かせたことが不安になっ たそうだ。聞き及んだ林さんの一方的な口調から考え るに、林さんがかなり切羽詰まった状況にいるように 思えて、それで社長に調剤の仕事を代わってもらい、 慌てて後を追いかけたそうだ。刑部さんのスマート フォンに残っていた着信履歴は、それを伝えたいがた めのものだったのだ。  「よくそこまで気がつきましたね」  爽太は感心したが、毒島さんはかぶりをふった。  「いいえ。褒められたことではありません。もっと早 くに気づくべきでした。刑部を危険にさらすような指 示を出して、自分は本当に未熟者です。薬のことばか りに気を取られ、それ以外のことを軽視していまし た」  本当にごめんなさい、と毒島さんは刑部さんに頭を 下げた。  「やめてください。毒島さんは悪くないですよ。私は 平気だったんですから、気にしないでいいですよ」  刑部さんは困ったように手をふった。爽太に色々と 話をしたことを、決まり悪く思っているのかもしれな い。  そこで会話が途切れた。駅まではまだ距離がある。  「あの、毒島さん」と爽太は言った。頭にはミスコン の準グランプリのことがあった。思い切って訊いてみ ようと思っだのだが、しかし振り向く毒島さんの真面 目な顔を見て気を変えた。やはり今はまずいかな。そ れで慌てて言った。  「ジベノールという薬の話にはびっくりしました。あ んな難しいことを何も見ずにすらすら言えるなんて、 毒島さんは暗記力もすごいんですね」と別に思ったこ とを口にする。  「暗記はしていません。林さんに説明する必要がある かとも思い、直前に本を見て覚えてきたんです。それ がいざ家についたらあの状態でしたから、とりあえず 事情を説明しようと、夢中で言い立てただけの話で す」  毒島さんは真面目な顔で返事をした。  「難しい専門用語ばかりで、僕にはさっぱり意味がわ かりませんでした。心室細動とかは聞いたことがあり ますが、心室頻拍とかQT時間とかなると、もう何か 何やらさっぱりです」  爽太は話を終わらせるつもりで笑ったが、毒島さん は真面目な顔を崩さなかった。  「そんなに難しいことではありません。心室頻拍とい うのは、心室の一部から連動して起こる異所性刺激に よって頻脈を呈する病態のことです。心室細動に移行 する恐れがあるためすぐに処置することが必要になり ます。QT時間とは心電図におけるQ波のはじまりか らT波の終わりに至る時間のことで、それが異常に長 くなって、脈が乱れ、立ちくらみや失神などの発作を 起こす症状がO、T時間延長症候群です。先天性と二次 的に分類されて、薬剤によって引き起こされるO、T時 間延長症候群は二次的にあたります。そのO、T延長を 引き起こす薬剤ですが、抗不整脈のほかにも向精神薬、 抗菌薬、分子標的薬など多岐にわたりますI」  毒島さんの話は駅まで続き、爽太はひたすら相槌を 打ち続けた。  I  林家の事件があった翌週の火曜日。爽太は夜勤のシ フトに入っていた。  パソコンの前に座って翌月の予約の整理をしながら、 ぼんやりと毒島さんのことを考える。足の痒みのこと で相談してから、すでに一か月半が経っていた。食事 に誘おうと思いながら出来ないでいるのは、どういう 距離感で接すればいいかに迷っているからだ。  過去につきあった女性との間には、小説や漫画、映 圉、テレビドラマ、音楽という共通の趣味嗜好があっ た。しかし毒島さんはそのどれにも興味がないようだ。  どうすれば毒島さんともっと親しくなれるのか。薬 に関する本を読んではいるか、正直、毒島さんの知識 には遠く及ばない。文系男子が理系女子と交際するの はやはり難しいことなのか。母親から渡された一万円 札はまだ財布に入ったままだった。あまり日にちが空 くのも変だし、とりあえず適当な手土産を見繕い、そ れを渡すことでお礼としてしまおうか。  そんなことを考えていると、隣で電話をしている馬 場さんに肘をつつかれた。額が薄くなった中年男性が カウンターの前に立っている。  「いらっしゃいませ」  爽太は慌ててその前に移動した。  「予約していた徳岡です」中年男性はぼそぼそした声 で言う。  「かしこまりました。こちらにお名前を」  宿泊カードをカウンターに出して、記入している間 にその名前をパソコンに打ち込んだ。過去に宿泊履歴 があるようで、個人情報が記載されたウィンドウが立 ち上がる。  徳岡誠二、三十五歳、立川市在住、一月と五月にも 宿泊したことがあるようだ。爽太は六一〇号室のルー ムキーをカウンターに置いた。  「ご予約は三泊でよろしいですか」  「……ああ、はい」  徳岡氏はルームキーを受け取って、そのままカウン ターに背を向けた。その丸めた背中をどこかで見たよ うな気がした。過去に宿泊したのなら見覚えがあって もおかしくないが、ホテル以外の場所で見たような気 がするのだ。しかしはっきりしたことは思い出せない。   エレベーターに向かう後ろ姿を見ながら、首をひ ねっていると、「今のうちに飯を済ませておくか」と 馬場さんが声をかけてきた。じやんけんをして勝った 爽太が先に休憩室に行く。賄い飯を食べていると、内 線電話で馬場さんに呼ばれた。  「お客さんが来ているぞ」  「混んできましたか。すぐ戻ります」  「違う。違う。暇だよ。水尾さんはいますかって、若 い女性がフロントに来ているんだよ」  若い女性とは誰だろう。急いでバックヤードを抜け て、ロビーに向かう。入口の横にベージュのコートを 着た女性が立っていた。見た瞬間、はっとした。毒島 さんだった。爽太を見つけると、目礼するように頭を 下げる。爽太は小走りに駆け寄った。  「すみません。休憩中にお呼びたてして」毒島さんが 申し訳なさそうに言った。  「とんでもないです。でも、どうしたんですか。急用 ですか」  「実は、この前のお礼をしたいと思いまして」  毒島さんは手にした紙袋を差し出した。爽太がそれ を受け取ると。  「刑部に同行していただき、本当にありがとうござい ます。水尾さんがいなければ、彼女に危害が及んでい たかもしれません。本来であれば私かフォローしなけ ればいけないことなのに、水尾さんにご迷惑をかけた ことを大変申し訳なく思います」  腰を真っすぐに折って頭を下げた。サービス業の人 間でも見習いたくなるような綺麗なお辞儀だった。  「とんでもありません。ああなったのは偶然のなりゆ きです。毒島さんに頭を下げてもらうことじやありま せん」  「本当ならもっと早くお礼に伺いたかったんですが、 仕事が忙しかったりしたせいで、ここまで遅くなって しまいすみませんでした」  そう言われて、さらに爽太は恥ずかしくなった。本 当は自分が先にすべきことだったのだ。  「とんでもないです。僕の方こそ、ここまできちんと したお礼も出来ずにすみません」  「昨日、林さんが薬局にお礼に来られたんです。若い お嬢さんを危険な目に遭わせてしまって申し訳ないと 何度も頭を下げられて、こちらも大変恐縮しました」  隣家の主婦が話した通り、孫はギャンブルに入れ込 んで、闇金からも借り入れがあるらしかった。どうし てもあの囗のうちに百万円を工面する必要があり、祖 母である林さんの家に強引に押しかけたのだ。孫は力 ずくで家探しをしようとして、止めようとする林さん を押し倒したとのことだった。  「あの男はどうなったんですか。まだ逃げているんで すか」  「自宅に戻ったところを逮捕されたそうです。その報 告も兼ねて、林さんはお詫びとお礼にいらっしやった のです」  家族内の揉め事として穏便に済ませる選択もあった が、林さんはあえて被害届を出したらしい。今回のこ とをなかったことにすれば、またいつ金目当てで押し かけられるかわからない。さらにはもっと別の犯罪に 手を染める可能性もある。ここはきちんとけじめをつ けるべきだと考えたそうだった。  「勇気ある決断だと思います。そうする以外に更生を 促す道はないと私も思います」  毒島さんは重々しく頷いた。勇気か。その言葉を聞 いて、爽太も決めた。  「あの、毒島さん、これまでのことを思えば、僕の方 こそきちんとお礼をするべきでした。足の痒みのこと も、ワーサリンのことも、ステロイドのことも、客室 係の中野さんや南さんのことも、それぞれに貴重な助 言をいただきありがとうございます。それでお礼と 言ってはなんですが、今度、食事に招待させてくださ い」 「そんなお礼をされるようなこと、私は何もしていな いですが」と毒島さんは首をかしげる。どうやら本気 でそう思っているようだ。  「そんなことないです。毒島さんのお陰で助かったこ とが色々とあります。社交辞令ではなく、本気で感謝 しているんです。だからぜひお礼をさせてください」  爽太はここぞとばかりに口調を強める。  「−わかりました。そういうことならお誘いを受け させてもらいます」  毒島さんは戸惑った顔をしながらも頷いた。飛び上 がりたくなる気持ちを抑えて、「いつなら都合がいい ですか」と爽太は尋ねた。  「私はいつでもいいですが」  「じやあ、金曜日の夜はどうでしよう。仕事が終わっ たら連絡ください。近くのお店を予約しておきます」  「わかりました。八時に仕事が終わるので、その後で あらためて連絡します」  連絡先を交換して帰っていく毒島さんを、爽太は天 にものぼる心地で見送った。  「誰だい、あれは。彼女かい」  足取りも軽くフロントに戻ると、馬場さんが興味 深々な顔で訊いてきた。  「違います。知り合いの薬剤師さんですよ」  「薬剤師? どこでそんな人と知り合ったんだよ」と 馬場さんがさらににじり寄る。  「話すと長くなりますよ。たぶん馬場さんの休憩時間 がなくなります」  「それは困るな。じやあ、仕事がI区切りついた後の お楽しみにしておくか」  馬場さんは肩をすくめて休憩室に向かった。  その夜、宿泊客のチェックインがすべて終わった後 で、これまでの経緯を馬場さんに話した。水虫の件か らはじまって、三〇五号室の件、中野さんと南さんの 件、林さんの自宅に行った件と話を進めて、方波見さ んが馬場さんを知っていたことで自分を信用してくれ たこともついでに話した。食事に行く約束をしたこと で、気持ちが舞い上かって口が軽くなったのだ。  「つまり俺のお陰であの女性と仲良くなれたというこ とか。なんだよ。やってくれるな。人の褌で相撲を取 りやかって」と馬場さんは笑う。  「馬場さんのお陰ってことはないですが、でも多少の アシストにはなりましたかね」  「でもそれならよかったよ。さっきはずいぶんかしこ まった風だったから、てっきりお別れの挨拶に来たの かと思ったよ」  「お別れって、まだつきあってもいないですが」  「違う。違う。俺が言いたいのは、お別れしましよう ではなく、お世話になりましたのお別れだよ」 「それは仕事を辞めるって意味ですか」 「そう。暇乞いのお別れだ」 「辞めるなんてことはないですよ。毒島さんは薬剤師 の仕事に本気で取り組んでいるんですから」  「でも薬剤師は、医師や看護師と同じ国家資格だろう。 今の仕事場を辞めても職にあぶれることはないはずだ。 いまどきの調剤薬局はコンビニより数が多いって話だ しな」  暇な時間に売れ残った新聞を熱心に読んでいるせい か、馬場さんは妙なことを知っている。  「そんなことはないです。食事に行く約束をしたし、 辞めるなんてことはありません」  爽太がむきになって言うと、馬場さんは困った顔で 頭を掻いた。  「そうか。じやあ、俺の勘違いかな。変なことを言っ て悪かったよ」  その後に仮眠を取ることになり、食事を先に取った 爽太がまず仮眠室に向かった。仮眠室は客室係の控室 の横にある窓もない部屋だ。備えつけの簡易ベッドに 横になったが、馬場さんの言葉が気になって眠れない。 馬場さんはお茶らけてはいるか、人を見る目は確か だった。宿泊者の顔つきや挙動、話し方を観察するだ けで、よからぬことを考えていると事前に見抜くこと もある。過去には宿泊費を踏み倒して逃げようとした 悪質なスキッパーの目論見を見破り、事前に防いだこ ともある。  そんな馬場さんの直感を、ただの勘違いと切り捨て ていいものか。でも毒島さんが辞めるなんてことがあ るだろうか。いや、しかし自分は毒島さんのことを深 く知っているわけではない。そういえば前に北海道の 調剤薬局に勤めていたとか言っていた。多摩薬科大学 を出ているはずだけど、もしかして北海道が出身地と いうことだろうか。大学を卒業して向こうに戻っだの かな。でも、それならどうしてまた東京に戻って来た のだろうか。  あれこれ考えているうちに寝そびれてしまい、気が つくと三時になっていた。爽太は起き出すと、洗面所 で顔を洗ってフロントに戻った。  「代わりますよ」  バックヤードで裸足になって、新聞を読んでいる馬 場さんに声をかける。  「おお」と声を出して老眼鏡を外すと、「寝ている間 に電話があったぞ」と馬場さんは言った。  「電話って、こんな時間に誰ですか」  まさか毒島さんから誘いを断る電話があったのか。  「田上弓子と言ってたな。前に泊まったときにお世話 になったとか言ってたぞ」  それを聞いて、ほっとした。その名前には憶えが あった。去年の暮れ、家出した息子を搜しているとい う女性が、二週間ほどホテルに泊まったことがあった。 息子が過去に神楽坂のアパートに住んでいたことがわ かったので、手掛かりを探しに来たと言っていた。話 し好きな女性で、深夜にフロントに降りてきては、息 子の話を色々と聞かされた。上地勘がないという弓子 のために、仕事をあがっだ後で道案内をしたこともあ る。  結局、二週間の滞在では手掛かりを見つけることは できなかったようだ。爽太に重ねて礼を言い、暖かく なったらまた捜しに来ます、と言って弓子は帰って 行ったが、結局それ以来、音沙汰はなかった。もう涼 しい季節になっているが、電話があったということは、 もしかして捜索に何らかの進展があったのだろうか。 見つかっだのならいいけれど。  そんなことを考えていると、午前四時を過ぎた頃に 電話が鳴った。  「夜分恐れ入ります。田上と言いますが。……水尾さ んですか。その節はお世話になりました。……はい、 お陰様で見つかりました。千葉の方で建築関係の仕事 をしているのがわかって、先週、三年ぶりに会いまし た」弓子は電話口で嬉しそうに告げた。  「それで今、お世話になった方に、お礼に伺っている ところなんです」  金曜日の夕方、お伺いしたいのですが、お時間を 取っていただくことは可能でしょうか、というのが弓 子の電話の目的だった。しかし金曜は毒島さんと約束 がある。  「わざわざお礼に来ていただくほどのことはしていま せんよ」と爽太は斷ったが、弓子は納得しなかった。 はじめての土地で道案内をしてもらい、すごく助かっ た、どうしてもお礼を言いたい、と譲らない。 「夕方というと何時ごろですか」 「他を回ってそちらに行くので、六時ごろになると思 います」  その時間なら大丈夫だろう。  「わかりました。じやあ、ホテルでお待ちしていま す」  「ありがとうございます。では、そのときにあらため て」  受話器を置くと、人気のないフロントには静寂が 戻った。  その後は何事もなく時間が過ぎた。朝方、驚いたこ とがひとつあった。  六一〇号室の徳岡氏が外出しだのだが、薄かったは ずの頭がきっちりした七三分けになっていたのだ。さ らにはサングラスをかけている。それで思い出した。 前に風花の窓際のテーブル席にいた男性だ。なんだ。 ウチの宿泊客だったのか。  仕事を終えると駅ビルの本屋に行った。薬の本と神 楽坂界隈の飲食店を紹介したグルメ雑誌を購入する。 自宅に戻って、金曜日に毒島さんと行く店を探した。 居酒屋は問題外だし、フランス料理も堅苦しい。古民 家を改装した日本酒バーに惹かれたが、毒島さんが日 本酒を好きかどうかもわからない。とりあえずノンア ルコールのドリンクも充実しているイタリアンレスト ランに決めた。金曜日の八時半に予約を入れて、薬の 本をリビングで読んでいると、「ねえ、爽太、お願い があるんだけど」と大学から帰って来た諷子に声をか けられた。四つ年下の諷子は、お兄ちゃんとは呼ばず 爽太のことを呼び捨てにする。  「爽太のホテルつて神楽坂にあるんだよね。近くに是 沢クリニックつてあるのを知っている?」  妹の口からその名前が出たことに驚いた。  「どうしてお前が知っているんだよ」  「ネットで見だの。そこでソーシンザイを売っている らしいんだ。お金は出すから今度、仕事帰りに買って きてよ」  「ソーシンザイつて何だよ。チングンサイの親戚か」  「つまらない冗談は言わないで。ソーシンザイつて 言ったら痩せ薬に決まっているでしょう」  痩せ薬? 爽太は呆れて諷子の顔をまじまじと見た。  「やめとけよ。あそこはヤブをはるかに超えたモリ医 者だぞ。そんな医者が売っている薬が効くはずない」  「でもロコミ掲示板に出てるんだよ。ほら、見てよ。 美容外科でも扱っている痩身薬が安く手に入るって評 判だよ」  諷子がスマートフォンを目の前にかざす。しかし爽 太はあえて目を向けなかった。どうせガセネタに決 まっているのだ。  「そんな怪しい薬は飲まない方がいいぞ。−つてい うか、お前、全然太ってないじやないか。どうして痩 せ薬を飲む必要があるんだよ」  「太ってるよ。もっと足を細くしたいし、お腹まわり の肉も取りたいの」  新しい彼氏が出来たせいだろうか。諷子はいつにな く真剣な顔で訴える。  「それなら運動とダイエットをするんだな。怪しい薬 を飲んで痩せようなんて、そんな安易な考えを持つん じやないよ」  「怪しくないよ。これって厚労省が認可した薬だも ん」  「馬鹿だな。お前。役所が痩せ薬なんか認可するはず ないだろう。だまされているんだよ。ロコミ掲示板な んて九割は嘘やでまかせが占めているんだぞ」  「そんなことないよ。これはモデルや芸能人も飲んで いるちやんとした薬だもん」  「あのなあ、諷子」と爽太はソファに座り直して、口 調をあらためた。  「痩せるために薬を飲もうって、そういう考え方がよ くないぞ。薬というのは病気を治すために飲むものだ。 それに薬には効果と同時に副作用もある。素人判断で 気軽に飲んでいいものじゃない」  説教めいた言葉が口をついたのは、毒島さんの影響 で薬についての知識を得たためだった。  「なによ、その言い方’・ いいよ、もう、爽太なんか に頼まないI’・」  諷子は怒って行ってしまった。  大学生にもなって物を知らない妹だ。今度、毒島さ んに会わせて説教をしてもらおうか、と爽太はぶつぶ つ呟きながら、薬の本に目を戻した。  木曜日はまた夜勤だった。トラブルもないまま時間 がゆっくり過ぎていく。翌朝には徳岡氏がチェックア ウトした。領収書を渡そうとすると、手書きにしてほ しいと頼まれた。宛名には、医療法人の名前をあげた。 そういえば風花では医師国家試験の参考書を読んでい た。医療関係者ということか。今朝は鬘もサングラス もつけていない。徳岡氏は肩を丸めて、どこかとぼと ぼした足取りでホテルを出て行った。  雲行きが怪しくなったのは昼前だった。客室係の南 さんから、体調不良や子供の発熱でパートさんが四人 休んでしまい、このままでは掃除が時間内に終わらな い、と切羽つまっだ声で報告があったのだ。  中野さんが、系列のホテルに転勤したのが先週だっ た。専門の病院で診てもらった結果、突然強い眠気に 襲われるのは、やはリナルコレプシーという病気とわ かった。薬で症状はコントロールできるので、日常生 活に支障はないはずだが、本人は強く退職を希望した。 病気だったら仕事を辞める、と南さんの前で大見得を 切ったせいだろう。  しかしその仕事ぶりを買っている上司が引き留めて、 別のホテルヘの異動という形で落ち着いた。中野さん の後任には、南さんがそのまま昇格する形になった。 穏やかな性格の南さんは、それまでの強権的な方法と は違って、民主的な方法でパートさんの労務管理を 行った。常に平等を心掛け、みなの話に耳を傾けて、 無理を強いることをやめたのだ。結果として職場の雰 囲気は前よりよくなり、客室の掃除は前より行き届く ようになった。  周囲からすればいいことばかりだが、南さん本人の 負担は増えているようだった。今日も四人から休みた いと連絡をもらって、わかりました、と快く返事をし たらしい。もしこれが中野さんなら、それくらいで休 むなんて仕事を舐めているの、お客さんを汚れた部屋 に泊めるつもりなの、と怒鳴りつけていただろう。  南さんは一人ですべてを抱え込む癖がある。放って はおけないので、フロントの仕事を終えてから、三時 間ほど客室係の仕事を手伝った。しかし悪いことは重 なるもので、帰り際にたまたま受けた電話が、入れた はずの予約が入っていないという内容だった。その応 対でばたばたしているうちに帰れなくなった。結局、 先方の勘違いで、予約をしたのは別のホテルとわかっ たのだが、そのときにはすでに五時を過ぎていた。六 時になれば田上さんが来る。もはや家に戻る余裕もな い。  とりあえずバックヤードに行って、スマートフォン の電源を入れる。忙しくて覗き見る暇もなかったのだ。 すると毒島さんからのメッセージが入っていた。 〈申し訳ありませんが、本日の夜、急用が入ってしま いました。せっかくのお誘いですが、またあらためて お願いしたいと思います〉  見た瞬間、力が抜けた。頭の中が真っ白になって、 何かを考える気力も失った。休憩室で呆然としている と、「田上さんがいらっしやったぞ」と馬場さんに声 をかけられた。  何も考えられないままロビーに行って、挨拶をして から息子さんの消息についての話を聞いた。家出の途 中で借金を作り、夜逃げのような形で転居を繰り返し たことや、住民票の異動を追いかけて建築会社の寮に たどり着いた、ということを田上さんは話したが、言 葉は爽太の頭をただ素通りしていった。  田上さんが帰った後で、疲れた体を引きずって休憩 室に戻った。  ドタキャンのショックに寝不足の疲労が重なり、今 にも気を失いそうだった。椅子にもたれてぐったりし ていると、日勤を終えた馬場さんが休憩室に来た。  「薬剤師さんと約束があるんじやないのか」  「キャンセルになりました」  「ありや、ふられたのか」  「そうらしいです」自棄になって頷いた。  「店を予約したんだよな。もうキャンセルしたのか い」  そう言われて現実的な問題に気がついた。そうだ。 すぐに電話しなくては。  「キャンセルできないんだったら、俺がつきあって やってもいいけどな」馬場さんがにやりと笑う。  「いや、いいです」  毒島さんと行くはずだった店に馬場さんと行く気に はなれない。しかし、このまま家に帰るのも嫌たった。 一人でヤヶ酒を呷るのも空しいし、酒を飲む相手とし てとりあえず馬場さんは最適だ。  「他の店なら行ってもいいですよ」  「おっ、いいね」馬場さんはにこにこ笑って、「どこ にする。赤城屋か」と過去に爽太の靴と取り違えた居 酒屋の名前を口にした。  「いや、他にしましようよ」  「焼き鳥か。それともおでんにしておくか」  騒がしい店に行く気分ではなかった。グルメ雑誌で 見た店を思い出す。  「見番横丁の近くに新しい日本酒バーが出来たそうで すよ。じっくり飲める店みたいですし、新しい河岸を 開拓するためにも、今日はそこに行ってみませんか」 〈狸囃子〉は裏路地にひっそりと建つ、古民家を改装 した店たった。  朝の五時までやっているそうで、天然木のカウン ターに腰かけて、牡蠣の燻製と地鶏の焼き鳥を肴に日 本酒を飲んだ。  「一度はOKしておきながら、間際になってドタキヤ ンですよ。やっぱり誘うのが早かっだのかな。もっと 時間を置いて、警戒心を解いてから誘った方がよかっ たんですかね」余計なことは言わないつもりだったが、 ついそんな愚痴が口をつく。  「いや、逆だよ、逆。こういうことは相手に印象が強 く残っているうちに手を打った方がいいんだよ。時間 を置くと、印象が薄れて、気持ちが冷めちまう。最初 に薬局に行ったときか、あるいは三〇五号室の件でホ テルに来てくれたとき、なんとしても誘うべきだった と俺は思うぞ」  「そうしようとは思ったんですよ。でも言うべきタイ ミングが合わなくて」  「それは言い訳だな。いいか。水尾くん、ただ待って るだけじゃ彼女は出来ないぞ。女性をものにしたいと 思ったらI押し二押し三に押しだ。とにかく積極的に 行かないと」  「すいませんが、そういう昭和の口説き方は性に合わ なくて」  「女を口説くのに昭和も平成も令和もあるもんか。光 源氏の昔から、女は押しの強い男に弱いと相場は決 まっているんだよ」  バツニの五十男に言われてもまるで説得力がない。 二時間ほど飲んで、いい感じに酔いがまわってきた。  「ちょっと、トイレに行ってきます」  立ち上がったとき、店の扉があいて二人連れの女性 が入って来た。通路が狭いので、道をあけようと体を ずらす。  「なかなかいい感じのお店じやないですか」  「日本酒が美味しいらしいけど、明日も仕事なんだか ら飲み過ぎちやダメよ」  「大丈夫ですよ。まだ若いし、そんなの全然平気で す」  「友達の結婚式の二次会で飲み過ぎたとか言って、仕 事を休んだのはどこの誰よ」  「あれはちょっとしたアクシデントです。結婚相手の 男の人が気になっていた人だったので、ついつい飲み 過ぎた結果です」  聞き覚えのある声たった。顔をあげると刑部さんと 目が合った。  「あれ、水尾さんI?」  連れの女性もこちらを見た。方波見さんだった。二 人は最初、驚いて、そのすぐ後で慌てた様子になった。  「ちょっと、どうするのよ」 「あれれ、よりによってここですか」  すぐには意味がわからなかった。ここにいたらまず いことでもあるのだろうか。  「なんのことですか」  「だって」と刑部さんは首をめぐらし、あたりを見ま わして、「一緒ですよね」と言いにくそうに口にする。  「僕が一緒にいるのはこの人ですけど」爽太は馬場さ んの薄くなった頭を指さした。  「んん……ああ、これは、これは、お久しぶりです」 振り返った馬場さんが方波見さんを見つけて頭を下げ る。  「あら、馬場さんじやないですか。その節はどうもお 世話になりました」と方波見さんも言葉を返す。  「じやあ、毒島さんとはI緒じやないんですか」刑部 さんが不思議そうな顔で爽太に訊いた。  「いや……一尨いますけど」  どう答えていいか一瞬迷った。どうして二人がその ことを知っている? 誤魔化そうかと思ったが、どこ まで知っているのかわからないので話のしようがない。  「約束したのは事実ですけど、急ぎの用が入っだとか で、夕方になってキャンセルされました。でもどうし てそれをお二人が知っているんですか」  「だって毒島さん、私たちが食事に行きませんかと 誘っだのを、水尾さんと約束があるからって斷っだん ですよ」  「ああ、そうなんですか。じやあ、キャンセルする前 に誘っだのかな。キャンセルの連絡があっだのは夕方 ですけど」  「私たちが誘っだのは七時頃でした」  その時間、すでに自分は馬場さんとこの店にいた。 ということは方波見さんたちの誘いを斷る口実に自分 との約束が使われたことになる。つまり毒島さんに とって自分はその程度の存在だったということだ。  −ああ、やっぱりそういうことか。  あらためて落ち込む爽太をよそに、しかし方波見さ んと刑部さんは真面目な顔で言葉を交わした。  「変ですね。毒島さん、どうして嘘をついたんでしょ うか」  「よほど私だちと食事をしたくなかったのかしら」  「でも普段なら私はいいですって、理由も言わずに斷 りますよ」  「それもそうね。今日に限ってわざわざ嘘をつくのも 妙な話よね」  「何か特別な用事があるということですか」  「もしかして、あのことが関係しているのかし ら……」  こそこそと話をする二人に、「そこのお二人さん」 と馬場さんが声をかけた。  「そんなところで喋っていると通行の邪魔だよ。ちょ うど向こうの席が空いたようだから、移動して皆でI 緒に飲まないか」と小上がりのテーブル席を指さした。  そんなわけで馬場さんを含めて四人で飲むことに なった。馬場さんと方波見さんとはすでに顔見知り だったので、爽太は刑部さんを馬場さんに紹介した。 その後に飲み物とつまみを注文すると、  「さっき何か言いかけたようですけど、毒島さんに何 かあったんですか」と爽太は方波見さんに尋ねた。  「あのことって何ですか」  「……実は月曜日にちょっとトラブルがあってね」方 波見さんは声をひそめて話し始めた。  「大きな声では言えないんだけど、近所でクリニック をやっているお医者さんからクレームがついたのよ」  含みのある言い方にぴんときだ。「もしかして是沢 クリニックの院長ですか」  方波見さんが人差し指を口に当てた。「個人名は出 さないで。こういう場所だと誰に聞かれているかわか らないから」  「すみません」爽太は首を縮めて声をひそめた。「で もクレームつてどういうことですか。毒島さんが間 違ったことをするとは思えませんけれど」  「たしかに彼女は悪くないのよ。でも、この世界、ど うあっても医者の立場が上なのよ。だからときには理 不尽な目に遭うこともあって」と方波見さんは口を濁 す。  「何かあったんですか」  心配になって爽太は身を乗り出した。そこに酒とつ まみが運ばれて来た。唐揚げや枝豆、冷奴、そして大 根サラダがテーブルに並ぶ。店員がいなくなった後で、 刑部さんが口を開いた。  「それについては私か話をします。なんといっても当 事者ですから」  月曜日の午前中のことだった。一人の女性が是沢ク リニックの処方箋を持ってどうめき薬局を訪れた。処 方箋の名前は三沢美莉亜。処方内容は、以下のような ものだった。  マルシオン錠(トリアソラム) 一日一回二錠 寝  る前 三十日分  ヘルドイドソフト軟膏(ヘパリン類似物質)  マーブロン28(デソゲストレル) 一日一回一錠  三十日分  担当した刑部さんは首をひねった。マルシオン錠は ベンソジアゼピン系の睡眠薬。ヘルドイドソフト軟膏 は、保湿と血行促進の効果がある塗り薬で、マーブロ ン28は、プロゲステロン剤を使用した第三世代の経口 避妊薬だ。  処方解析をしようにも、薬の内容がパラパラで、患 者さんにどんな症状があるのかわからない。だいたい 是沢クリニックは婦人科の専門ではない。それなのに どうして経口避妊薬が処方されるのか。刑部さんは 困って、方波見さんに相談した。処方箋に目をやった 方波見さんは、たしかにおかしいわね、と口にした。  「そうですよね。婦人科でもないのに、ピルを出すな んて」  「問題はそこじやないでしょう。皮膚科ならありえる わ」  「えっ、そうなんですか」  「ニキビの治療でピルを出すこともあるのよ」  そうだった。ヘルドイドソフト軟膏は、保湿と血行 促進については定評がある薬剤だ。患者さんが、皮膚 の乾燥やニキビに悩んでいるなら、この二つの薬が処 方されたことに不思議はない。残るはマルシオン錠だ が、思春期を過ぎてのニキビは、ホルモンバランスの 乱れによる要因が大きいはず。不規則な生活を送った り、過度のストレスを受けると、自立神経の交感神経 が優位になって、交感神経は男性ホルモンの分泌を促 すことがある。その状態が長く続くと男性ホルモンが 過剰になり、女性であってもニキビという形で肌に現 れる。つまり、この患者さんはストレスの影響で、肌 の不調と不眠に悩んでいるということか。そうである ならこの三つの薬が処方されたことに不思議はない。  「じやあ、この処方箋に問題はないですね」  「なんでそうなるのよ。見てくださいと言ったのはあ なたでしょう」方波見さんは不満そうに言う。  「でも話を聞いたら、特におかしなところはないよう ですし」  「処方箋の患者さんの年齢をよく見なさい」  あらためて見て、あっ、と思った。三沢美莉亜の年 齢は十一歳。つまりこの子は小学生にして睡眠薬と柢 用量ピルを服用するのだ。  刑部さんは待合室を見た。高齢者が多いこの時間帯、 一人だけ三十代後半くらいのルイーヴイトンのバッグ をもった女性がいる。母親だろうか。彼女は小学生の 娘がこんな薬を飲むことを認めているのか。虐待とか 育児放棄とかいう言葉が思い浮かぶ。娘に売春を強要 している母親が逮捕された、という記事をネット ニュースで見た記憶が蘇る。  大変だ。これは警察に連絡して、子供を保護しても らうべき事案ではないのか。刑部さんは慌てたが、方 波見さんは落ち着いたままで、  「何を想像したかは知らないけど、そんなに慌てなく ても大丈夫よ。処方箋の公費負担者番号をよく見なさ い。何番ではじまっている?」  「あ? (チ「チです」  公費負担者番号が88で始まるのは、子ども医療費助 成制度を使っての診療だ。東京においては未就学児を 扱う乳幼児医療費助成と、小学生・中学生を扱う義務 教育就学児医療費助成の二つがあり、これによって中 学校を卒業するまで自己負担なく、病院の診療を受け ることが出来るのだ。  「これはこの子が使う薬じゃないわ。あそこに座って いる女性は是沢クリニックのスタッフよ」  説明されて、やっとわかった。これは子供の保険証 を使うことで、自費負担をゼロにするための処方箋な のだ。  「保険証の不正使用は詐欺罪に当たるはずだし、処方 薬を他人に譲渡することも本来はしてはいけないこと ですよね」  「薬剤師の私か言うのも何だけど、バレなければ問題 にはならないわ。そしてこの手の話が表に出ることは ほとんどない。きっとあの院長もそれをわかってやっ ているのよ」  方波見さんの話によると、是沢クリニックは近くの 調剤薬局と密接な関係にあるらしい。三沢美莉亜とい うのは、たぶん看護師か事務員の娘で、その保険証を 使って薬を無料で手に入れているのだろう、とのこと だった。  「前にあそこを辞めた事務員さんから聞いたことがあ るの。スタッフから欲しい薬の希望を募ってば、タダ で入手して残業代の代わりに配っているらしいのよ」  「俺様院長、残業代も払ってないんですか」  聞けば聞くほどひどい医者だ、と刑部さんは呆れた。 たぶんあのスタッフは新人で、近くの調剤薬局に行く べきところを間違えてウチに来たのだろう、と方波見 さんは言った。  「どうしましようか」と問う刑部さんに、  「とりあえず疑義照会してちょうだい」と方波見さん は答えた。  是沢クリニックに疑義照会をして、いい思いをした ことは一度もない。しかしこればかりは仕方ない。三 沢美莉亜さん、と名前を呼ぶと、ルイーヴィトンを もった女性が席を立ってカウンターに来た。まずは処 方内容を確認する。  「十一歳のお子さんにマルシオンと柢用量ピルが出て いますが、これで間違いはないですか」  「私は頼まれて来ただけだから、内容までは知らない わ」目を合わそうともしないで女性は言った。  「わかりました。では担当のお医者さんに確認します ので、しばらくお待ちください」  「早くしてよね。時間までに戻らないと怒られるの よ」  「急ぎますので、おかけになってお待ちください」  処方箋にある番号に電話をかける。  「はい。是沢クリニックです」  「お世話になっております。どうめき薬局ですが、実 は、そちらで出された処方箋のことで、疑義照会をお 願いしたいのですが」刑部さんは内容を説明した。  「お待ちください」電話が保留された。〈エリーゼの ために〉が流れる。しかし五秒もかからず電話は取ら れた。「そのままでいいと院長は言ってます」  早い。あまりに早すぎる。本当に院長に訊いたのか、 と突っ込みたい気持ちになってくる。しかし余計なこ とは口にしなかった。スタッフも知っていることなの だ。ありがとうございます、と電話を切った。  「このままでいいそうです」  刑部さんの返事に方波見さんは肩をすくめた。薬剤 師法によって、薬剤師は処方箋に疑義を唱えることは できるが、正当な理由がないままに処方を拒否するこ とはできない。  刑部さんは調剤に取りかかろうとした。そこに、 「待ってください」と声がした。他の患者さんへの投 薬を終えた毒島さんが方波見さんに声をかけたのだ。  「そのまま薬を出すんですか」  「だって処方箋の通りに薬を出すのが薬剤師の仕事で しょう」方波見さんが戸惑った声で言う。  「最近、あそこの院長のいい加減なやりかたは目に余 ります。患者さんにきちんと説明しないまま大量に薬 を出したり、大した症状でもない子供の患者さんに毎 週診察に来るように促したり。この前は顕微鏡検査も しないまま、患者さんに足白癬の薬を処方していまし た」  「それは私たちが言ってもしようがないことでしょ う」  「診察や診断についてはそうですが、処方箋について の疑義は見逃せません。小学生にこんな薬を処方する なんておかしいとはっきり抗議するべきだと思います。 どこの世界に小学生に睡眠薬を一日二錠も出す医師が いますか。保湿剤500gといえば、50gのチューブ を十本です。何人かで分けるには適当な量ですが、二 キビの治療には多すぎます」  「どうしろって言いたいの」  「納得するまで疑義照会をするべきだと思います」  「でも刑部さんにこれ以上照会をさせるのは酷という ものよ」  「それなら私がします」と言って毒島さんは刑部さん を振り向いた。  「私か疑義照会をしてもいいかしら」  黒縁眼鏡の奥の瞳には怒りの炎が燃えている。  「はい。どうぞ」刑部さんは光の速さで頷いた。  「それで毒島さんが疑義照会の電話をしたわけです。 この処方箋はおかしいと言って、向こうが院長に代 わっても、一歩も引かず、ひるむことなく意見を言い ました」  是沢クリニックの処方箋には、これまでにも首をひ ねる箇所がいくつもあったそうだ。似たような名前の 薬を取り違えたり、子供の体重換算を間違えたりと、 ミスのオンパレード状態だったのだ。  「そうしたら院長は本気で怒り出したようでした。薬 剤師の分際で生意気を言うな、お前らは医者の処方通 りに薬を出していればいいんだ、と大声でがなり立て ました」  受話器を通して、まわりに聞こえるほどの大声だっ たという。  「最後に、お前、名前はなんというんだ、このままで 済むと思うなよ、と言って電話を切ったんです」  そのすぐ後でルイーヴィトンをもっている女性の携 帯が鳴った。受け答えをした女性は真っ青な顔になり、 処方箋を取り戻して薬局を出て行った。たぶん行くべ き薬局を間違えたことを怒られたのだろう。  「その日はそれで終わりました。でも翌日になって、 あらためて社長に院長からクレームの電話が入ったん です」  そのやり取りも刑部さんは聞いていた。休憩中に洗 面所にいたとき、社長が携帯電話で話をしながら廊下 に出て来たところに遭遇したのだ。  −いやあ、勘弁してください。本当にそんなつも りはありませんから……い‘凡、先生のことをそんな風 には思っていませんよ。今回のことは間違いなくウチ の薬剤師の勇み足です……ゝ凡っ、いや、失礼しました、 勇み足ではなく、不手際です。先生の処方箋に限って 問題なんかございません。医師の処方箋にケチをつけ るなど、調剤薬局においては、絶対にあってはならな いことでございます。……はい、二度とこのようなこ とがないように、私かすべての薬剤師に指導いたしま す。もちろん先生のもとには私か直接お詫びに伺いま す。……はい、先生の人柄に見合った高級な店で、心 置きなく寛げるようなお詫びの席を作らせていただき ますので……もちろん先生の好みは熟知しております よ。ボリュームがあって清潔感のある女性ですよね。 ですから先生、薬剤師を首にしろというのだけは、 何卒、ご勘弁願いますI。  廊下を行ったり来たりしながら、しきりに頭を下げ ている社長の姿が切なかった、と刑部さんは言った。  「首にしろだなんて、あの院長にそんな権限があるん ですか」爽太は驚いて質問した。  「あの院長の義理の父親が医者で、医師会のお偉いさ んなのよ。薬剤師会のお偉いさんにも知り合いがいる らしくて、それを笠に着て社長に無理難題を吹っかけ るのが、昔からのやり方なのよ」  方波見さんが吟醸酒のグラスを傾けながら、裏事情 を教えてくれた。  「じやあ、本当に首ですか」声に不安が滲み出る。  「平気ですよ。ウチの社長、毒島さんを買っているか ら、そんなことくらいで首にはしませんよ」と刑部さ んは梅酒ロックのグラスをもちあげる。  「あの院長だって本気で首に出来るとは思ってないわ。 調剤薬局でミスや手違いがあるとすぐに難癖をつけて くるのはいつもの事よ。目的は銀座のクラブとゴルフ で接待をさせること。だから首にまではいかないわ」 方波見さんが大根サラダを箸でつまみながら首をふる。  「毒島さん本人は、それをどう思っているんですか」  「納得はしていないと思います。火曜日に社長と話を した後は、今までにないほどムツとした顔をしていま したから。でもそれ以上、何かを言うことはなかった です」刑部さんがグラスをテーブルに置く。水がグラ スにぶつかリカラカラと音を立てる。  納得はしていないが文句は言わないということか。  「それでとりあえず話は終わったと思ったんだけど、 今日の昼間、社長が銀座のお店に電話をして、その夜 の予約をしているところに毒島さんが偶然出くわした らしいのよ」と方波見さんが話を続けた。  「毒島さんは接待の件を知らなかったのね。それで怒 り出したのよ。あんな医者を接待する必要なんかな いって、社長に食ってかかったらしいんだけど」  しかし社長は、これは僕と院長の間の問題であって、 きみが口を出すべきことではない、と一蹴したそうだ。  「その後で、毒島さんがこれまでにないほど暗い顔を しているものだから、心配になって、仕事が終わった ら食事に行かないかと方波見さんが声をかけたんで す」  刑部さんが話を補足する。  「見るからに思いつめた雰囲気があったのよ。斷られ たけど、でもその理由があなたとの約束だと言うから、 それなら大丈夫かなって思ったのよ」  でも実際には毒島さんは、その時点で爽太との約束 をキャンセルしていた。時系列に沿って考えると、社 長が院長を接待すると知った後で、爽太との約束を キャンセルしたことになる。なんとなく嫌な予感がし た。社長に言っても埒が明かないので、まさか直接文 句を言いに行ったとかI。  そんな不安を口にすると刑部さんは、「それはない です」と手をふった。  「是沢クリニックは六時に診療を終わります。その後、 院長は社長と一緒に銀座です。クリニックに行っても、 文句を言うべき相手はすでにいません」  「じやあ、銀座に行ったというのはどうでしよう。お 店に直接乗り込んで、院長に文句を言うようなことは ないですか」と爽太はあらだな不安を口にした。  「毒島さんでも、さすがにそこまではしないです」  刑部さんは笑ったが、方波見さんは眉間にしわを 作って、  「実はそれに関して気になることがあるの。夕方、社 長の行きつけの銀座のお店がどこかご存知ですかって、 毒島さんに訊かれたのよ」と言った。  「社長の行きつけの銀座のお店を知っているんです か」刑部さんが目をまるくする。  「もう十年以上勤めているのよ。経理を手伝った経験 もあるし、たいがいのことは知ってるわ」方波見さん は涼しい顔で言った。  「ということは、本当に毒島さんは本当に銀座の店に 行ったかもしれないわけですか」  爽太の言葉に方波見さんは頷いた。  「可能性としてはあるかもしれないわね。まさか店に 乗り込むまでのことはしないだろうけど、出てくるの を待って、院長に文句をぶちまけることはあり得るか も」  そんなことをしたら本当に首になる。慌てる爽太の 気持ちを逆撫でするように、  「なるほどな」と手酌で熱燗を飲みながら話を聞いて いた馬場さんが頷いた。  「邪推かもしれないが、その毒島さんという女性、火 曜日の夜、ホテルに来た時点で辞める覚悟をしていた のかもしれないぞ」と爽太の顔を見る。  「お前の誘いに応じたのも、最後だから無下に斷るの も悪いと思ったせいだ。タイミングを見て、退職届を 出すつもりだったんだろうな。だけど今日になって、 社長が院長を接待することを知った。それで穏便に事 を済ませられないと覚悟を決めた。院長に直接文句を 言って、そのまま仕事を辞めるつもりでいるんだと思 うぞ」  酔っ払っているはずなのに、妙に的を射たことを言 う。爽太の気持ちはざわついた。  「お前の名前を出して食事の誘いを斷っだのは、そち らの二人に余計な詮索をされたくなかったせいだよ。 他人に知られたくない秘密があるときに限って、人は 余計な嘘をつくものだからな」  そう言われると否定できない。大変だ。このままで は毒島さんがどうめき薬局を辞めてしまう。爽太は方 波見さんに向き直った。 「その銀座のお店、なんて名前ですか」 「みゆき通りから一本人った路地にある〈胡蝶蘭〉つ てクラブだけど」と言ってから方波見さんは眉をひそ めた。「これから行くつもり?」  「はい。行きます。僕の会計はこれで済ませてくださ い」  財布を取り出し一万円札をテーブルに置いた。  胡蝶蘭の場所はすぐにわかった。みゆき通りの裏に ある小さなビルの六階だ。クラブやラウンジが複数 入っている建物らしく、黒服の男性や体にぴったりし たドレスを着た若い女性がひっきりなしにエントラン スを出入りしている。あたりを注意深く見まわすと、 少し離れた電柱と建物の陰に、ベージュのコートを着 た女性が身を隠すように佇んでいるのに気がついた。 すぐに毒島さんだとわからなかっだのは、コートの下 が白いブラウスに黒い膝丈のスカートという服装のせ いだった。さらに眼鏡を外して、しっかりとメイクを 施している。  「毒島さんI」  そっと近づき声をかけた。  「水尾さん’・ どうしてこんなところにいるんです か」  毒島さんは驚きの声を出す。  「それは僕の台詞ですよ。食事の約束をキャンセルし ておきながら、こんなところで何をしているんです」  「いえ、それはI」毒島さんは悪戯を見つかった子 供のような顔になる。  「クレームのことは聞きました。馬場さんと飲みに 行った店で、偶然、方波見さんだちと会ったんです」  方波見さんだちと会った経緯と交わした話の内容を 口にする。  「ここに来るまで半信半疑でしたけど、毒島さんがい るのを見て想像が正しいと知りました。是沢院長に文 句を言って、どうめき薬局を辞めるつもりでいるんで すね」  「そんなこと、水尾さんには関係ないと思います」  毒島さんは表情を変えることなく横を向く。  関係なくはないです、と言いかけて、その愁いを含 んだような横顔に目を奪われた。宣]つすぐな鼻筋、切 れ長で二重の目、形のいい唇。眼鏡を外して、メイク をしただけで、女性の顔とはここまで際立つものなの か。爽太の視線に気づいて、毒島さんは慌ててコート の襟を立てて顔を隠した。  「そんなにじろじろ見ないでください。似合わない恰 好をしていることは、自分が一番わかっていますか ら」  「似合わないことはないですよ。普段よりも綺麗で す」この状況にそぐわないと思いつつもそんな言葉が 口をつく。  「やめてください。心にもないお世辞を言われること が、私は何より嫌いなんです」  「お世辞なんかじやありませんよ。毒島さんは学生時 代、ミスコンで準グランプリになったじやないです か」そう言いかけて途中でやめた。毒島さんの眉が八 の字になっていたからだ。  「どうしてそれを知っているのですか」  「いや、それは」  刑部さんから聞いたというのはまずいだろう。 「何でもありません」爽太は言葉を濁して首をふった。 「すみません。話を戻します。いったい何をするつも りで毒島さんはここにいるのですか」  「それは水尾さんには関係ない話です」  毒島さんはつんと横を向く。  「関係なくはないですよ。もともとは僕と食事に行く はずだつたじやないですか。それをドタキヤンして毒 島さんはここにいるわけです。それに僕との約束を口 実にして、方波見さんの誘いを断つだとも聞きました。 だからいま毒島さんがここにいる理由について、僕は 知る権利があると思います」  爽太の言葉に毒島さんは顔を曇らせる。  「すみませんが、私のことは放っておいてください。 どうめき薬局を辞めようと思っているのは事実ですが、 それは今回のことが原因ではありません。ひとつの仕 事場に一年以上いないようにしているんです。居心地 がいい薬局だとは思いますが、そろそろ潮時だと考え ていました」  「どうしてひとつの仕事場に一年以上いないようにし ているんですか」  「スキルアップのためです。建前として処方箋はどこ の調剤薬局に持っていってもいいことになっています が、現実問題として、患者さんは診察を受けた病院や クリニックの近くの調剤薬局に処方箋を持ち込みます。 だから周辺の病院やクリニックの診療科目によって、 調剤薬局の処方する薬は偏ってしまうんです。色々な 診療科目の調剤を経験するためには、折を見て勤め先 を変える必要があるんです」  「経験を積むために勤め先を変えるということです か」  「そうです。だから是沢院長のことが直接の原因では ありません。もともと年末までには次の勤め先を探す つもりでした。今回のことは、それが一か月早まった だけのことなんです」  前もって用意していたような答えだった。形ばかり の言葉では引き留めることは出来なそうだった。それ で思い切って言ってみた。  「僕が残ってくださいと言ってもダメですか」  「えっ?」毒島さんは不思議そうな顔をする。  「僕は毒島さんと親しくなれて嬉しかったです。薬の 話を聞けて勉強になりました。毒島さんがいなくなる のは嫌なんです。だから辞めないで、これからもどう めき薬局で仕事をしてください」  「待ってください。いきなりそんなことを言われて も」毒島さんは困ったように眉根を寄せる。  「経験を積むために勤め先を変えるにしても、期限を 一年に限ることはないわけですよね。延ばすことは出 来ないのですか」  「それは出来ないことはないですが」毒島さんは視線 を宙にさまよわせた。  「僕はもっと毒島さんと話をしたいんです。色々な話 −薬の話が主でしょうけれどIもっと僕に聞かせ てもらえませんか」  毒島さんは口を結んで、うIん、と唸った。  「水尾さんがそんな風に思っていたとは意外でした。 そう言ってもらえるのは嬉しいですが、でもそうはい かない事情があるんです」  「どんな事情ですか」  訊いても返事はないだろうと思ったが、毒島さんは あっさりとその事情を打ち明けてくれた。  「この際だから言いますが、私は家出同然で家を出て います。家族は私を探しています。場合によっては連 れ戻されるかもしません。見つかると厄介なことにな ると思い、一年以上は同じ上地に住まないようにして います」  「家出……ですか」  思いもしなかった理由に爽太はしばし言葉を失った。  「じやあ、前に北海道にいたというのもそれが関係し ているわけですか」  「はい。北海道以外にも九州にも四国にも関西にも行 きました。地方に行くほど薬剤師は引く手あまたにな るんです」  「どういう理由で家を出たのか訊いてもいいですか」  「それは個人的なことなので話しません」毒島さんは 毅然として言う。  「余計なことを訊きました」と爽太は匸冐謝ってから、  「でもご家族に居場所が知れたわけではないんですよ ね。それならそんなに慌てて辞める必要はないじやな いですか」と言葉を続けた。  そもそも年内は勤めるつもりでいた、と自分でも 言っていたのだ。  「こういう言い方は何ですが、たまたまタイミングが 重なっだので、言うべきは言っておこうと思ったので す」毒島さんは少し声を落として呟いた。  「でも是沢院長に面と向かって文句を言えば、身元が ばれて、社長にさらに迷惑がかかると思いますが」  そうなれば社長は、さらなる接待を是沢院長に強要 されることになる。  「もちろんそれについても考えました。だから眼鏡を 外してメイクをしたんです。これなら私と気づかれる ことはないはずです」と毒島さんは胸を張る。  「眼鏡を外してものが見えるんですか」  「伊達眼鏡です。家を出て以来、顔を隠すためにずっ としています」  「でも文句を言えば、その内容で誰だかわかると思い ますが」  「今回の件だけではなく、これまでに彼が行った不正 行為のすべてを糾弾するつもりです。これまでに自分 で見聞きしたこと、さらには方波見さんから聞いた話 と言うべきことはたくさんあります。だからそれを 言ったことで私とばれることはないです」  「でも身元がばれないなら、逆に辞める必要がないの では」  「いいえ、そうはいきません。倫理観の問題として、 そこまでしたら辞めるしかないと思っています」  毒島さんの覚悟は固かった。言葉を尽くして引き留 めたが、首を縦にふることはない。仕方ない。  「わかりました」と爽太は頷いた。  「毒島さんの気持ちはよくわかりました。それなら僕 も一緒に行きます」  「一緒に行くとはどういうことですか?」毒島さんは 首をひねる。  「僕も是沢院長に文句を言います」  「水尾さんが?」毒島さんの眉間に深いしわが出来る。  「やめてください。水尾さんには関係ないことです」  「関係なくはありません。接触性皮膚炎を足白癬と誤 診をされた恨みがあります。あのときの恨みはまだ胸 の中に燻っています。この際だから僕もそれをぶちま けてやりますよ」  「何を言っているんです。そんなことをしても水尾さ んにメリットはないですよ。あの先生のことです。 きっと勤め先のホテルにクレームを入れますよ」  「そんなことは気にしません。僕は誤診をされた被害 者ですからね。クレームがきたら受けて立ちます。出 るところに出て争います。医療過誤で徹底的に争いま すよ」爽太は胸を張った。  「馬鹿なことを言わないで下さい」毒島さんは眉間に 深いしわを作って、諭すように言葉を続ける。  「そんな訴えを聞いてくれる弁護士さんはいませんよ。 接触性皮膚炎を足白癬と診断しただけで、医療過誤だ なんて言ったら笑われます。悔しい気持ちはわかりま すが、騒ぎを起こしたところで水尾さんに得はありま せん」  「それならお訊きしますが、毒島さんにとって是沢院 長に文句を言うことに得がありますか」  「私は自分の損得だけで行動しているわけではありま せん。誰もが是沢院長の不正行為を黙認しているわけ ではないと、本人に知らしめるための行動です」  「それは僕も同じです。今回のことをたいしたこと じゃないと見逃せば、あの院長はまた同じような誤診 を繰り返すことでしょう。それでまた困る患者が出る わけです。たかが足白癬と侮られては困ります。足白 癬の痒さは経験した人間にしかわかりません。そのた めにも誰かがはっきり言うべきだと思います」  「あのですね」物わかりの悪い子供に、噛んで含める ような口調で毒島さんは言った。  「水尾さんがいくら文句を言ったところで、是沢院長 が悔い改めるとは思いません。結局は水尾さんの自己 満足で終わると思います」  「それは毒島さんだって同じじやないですか。毒島さ んが意見を言って、それであの院長が悔い改めると 思っているわけですか」  「それは……何とも言えませんが」  「僕が是沢院長を医療過誤で訴えるのが滑稽なのと同 じくらい、毒島さんのしようとしていることも滑稽な ことだと思います。言いたいことを言って辞めれば、 毒島さんは満足かもしれませんが、でも残された方波 見さんや刑部さんはどうなりますか。このタイミング で毒島さんが辞めれば、是沢院長は自分が与える影響 力をさらに過信するでしょう。是沢院長がそんな誤っ た自信を持ったとしたら、次に来る薬剤師の方にも迷 惑がかかると思います」  爽太の言葉に、毒島さんは黙り込む。  「僕は毒島さんにどうめき薬局を辞めてほしくはあり ません。こんなことをするよりもっと賢明な方法があ るような気がします。だからそれを一緒に考えてみま せんか。保健所に行くとか、保険組合に訴えるとか、 もっと公明正大なやり方があると思うのですが」  「……もちろんそれも考えました。でもどの話を取っ ても、訴えるには至らないというのが実情なのです」 と毒島さんは声を落とす。  「でもきっと何か方法がI」  言いかける爽太の言葉を、「もういいです」と毒島 さんは遮った。  「わかりました。文句を言うのはもうやめます」  「本当ですか」  「水尾さんと話をしていたら、少し冷静になりました。 自分では冷静なつもりでいましたが、思っている以上 に頭に血がのぼっていたみたいです。私もダメですね。 あの年代の横柄で身勝手な医師を見ると、どうも冷静 な判断が出来なくなるようです」  あの年代の医師という言葉に引っ掛かる。パワ(ラ とかセク(ラとかいう単語が思い浮かぶ。  「何か理由があるんですか。前に勤めていた調剤薬局 で嫌な目に遭わされたとか」  「そういうわけではないですが……実は」  何かを言いかけた言葉を途中でやめて、毒島さんは 顔をあげて通りの向こうに目をやった。爽太もそちら に視線をやった。胡蝶蘭の大ったビルの前に、数人の 男女が出てきたところだった。金縁眼鏡をかけて派手 な柄のジャケットを着た是沢院長がよろよろしながら 現れた。ふくよかな丸顔で是沢院長を脇で支えている 六十歳くらいの小柄な男性が百目鬼社長なのだろう。 二人のまわりを数人の女性が取り囲んでいた。和服を 着た貫禄のありそうな中年女性が胡蝶蘭のママで、赤 や白や黄色のドレスを着た若い女性たちがホステスと いうことか。是沢院長はかなり酔っているようで、横 で支えている百目鬼社長がいなければ、そのまま倒れ てしまいそうだった。  「毒島さんI」爽太は念を押すように言った。「何 もしないで、このまま帰るということでいいですよ ね」  「そうします。あんな酔っ払いに何を言っても意味が ないですし」  ほっと胸を撫で下ろしたときだった。「うるさい I’・」という声が夜更けの路地裏に響き渡った。是 沢院長が百目鬼社長を怒鳴ったのだ。  「ごちゃごちゃうるさいんだよ’・ 俺はママに話があ る。お前はそこでおとなしく待っていろ’・」  「でもタクシーが来てますよ」迎車のランプを灯して 停車しているタクシーを百目鬼社長が指さした。  「そんなものは待だしておけばいいんだよ’・」  百目鬼社長の手を振り払うと、是沢院長は和服の女 性の前によろよろと進み出た。  「ママ、今日の酒はうまかった。ここは本当にいい店 だ。俺は特にこの子が気に入っだ」  手を伸ばして、赤いドレスの女性の肩を引き寄せる。 ママと赤いドレスの女性が何かを言ったが、その声は 爽太たちには聞こえない。大声でがなる是沢院長の声 だけが路地裏に響く。  「きみ、今度、ウチのクリニックに来なさい。よく効 く痩せ薬を格安の値段で分けてやる。効果については 間違いないぞ。なにせ天下の厚労省が認可した痩せ薬 だからなI」  その言葉に諷子の言葉を思い出す。  「厚労省が認可した痩せ薬なんて本当にあるんです か」半信半疑で毒島さんに訊いてみる。  「ありますよ」と毒島さんは即答した。  「一般名はマジンドール、商品名はサドレックス。日 本で唯一承認されている食欲抑制剤です。美容整形の クリニックなどで扱っているようですが、是沢クリ ニックでも扱っていたとは知りませんでした」  「本当に痩せるんですか」  「そのようですね。ただしアンフェタミンと似た作用 があるので、取り扱いには慎重さが要求されますが」  「えっ、アンフェタミンつて覚醒剤の成分じやないで すか!・」  薬物の本で見た知識を思い出す。しかし毒島さんは 涼しい顔のままだっだ。  「アンフェタミンは、アドレナリンやドーパミンなど の脳内物質の再取り込み抑制を起こすことで、覚醒作 用や食欲抑制作用を発揮します。サドレツクスの有効 成分であるマジンドールは、食欲を司る視床下部を鈍 らせることで、同じように覚醒作用や食欲抑制作用効 果を発揮するのです。作用は似ていますが、化学構造 は異なるので、正しい用法用量を守っていれば、副作 用もコントロールできるし、離脱症状が起きることは ありません」  医師や薬剤師の指示通りに使用すれば安心だという 説明だった。  「でも、あの院長が患者さんに正しい用法用量をきち んと説明しますかね」  「実は、私もそれを心配に思ったところです」毒島さ んが頷いた。  「妹がその薬を買おうとしているんですが」  ロコミ掲示板で話題になっていると言うと、毒島さ んは顔をしかめた。  「それは気になる話ですね。マジンドールは軽々しく 服用していい薬ではありません」  「じやあ、妹にはそれを説明してやめさせた方がいい ですね」  「リスクがあることはきちんと説明するべきです。必 要があれば私か話をしてもいいですが」  「いえ、それには及びません」  さすがにそこまで面倒はかけられない。  「もし妹さんが納得されないようでしたら、遠慮なく 声をかけてください」と毒島さんは頷いてから、「そ れはそれとして、あの院長が本当にマジンドールを処 方しているのか、もっとくわしいことを知りたいです ね」と言った。  道の向こうから怒鳴り声が聞こえた。目をやると百 目鬼社長が是沢院長を半ば強引にタクシーに乗せよう としているところだった。是沢院長は未練がましく赤 いドレスの女性の手を握り、うるさい、俺はまだこの 娘に話があるんだよ、と百目鬼社長に文句を言ってい る。  毒島さんは呆れたようにため息をついてから、「行 きましよう」とそちらに背を向けて歩き出した。  翌週の火曜日。夜勤を終えた爽太は、是沢クリニッ クの入ったビルの前にいた。エントランスを抜けてエ レベーターで四階へ。クリニックに入ると、待合室に は杖をついた老人と制服姿の女子高生かいる。受付の 女性に診察券を差し出した。  「前回と同じ症状ですか」受付の女性が訊いてくる。  「いえ。こちらでサドレックスという薬を処方しても らえると聞いたんですが」  受付の女性はちらりと爽太の顔を見て、「おかけに なってお待ちになってください」とロビーを指さした。 五分と待たずに名前を呼ばれた。胸ポケットを軽く押 さえて診察室に入る。  「えIと、水尾さんね。サドレックスが欲しいのか」 是沢院長が訊いてくる。  「これまでに使った経験は?」  「初めてです」爽太は正直に言う。  「じやあ、簡単に説明をしておくか。これは厚労省が 唯一認可している食欲抑制剤だから、ドラッグストア で売っているサプリメントとは違い、服用すれば間違 いなく体重は減ることになる。しかし服用をやめれば 体重は元に戻る。それについてはあらかじめ覚悟をし ておくように」  飲み続けなければ効果は維持できないということか。 前に診察を受けたときより、妙に口調が優しいのが不 気味だった。餅は餅屋、薬のことは薬剤師に聞け、と けんもほろろの対応をした医者と同じ人物とは思えな い。  「とりあえず三か月分、処方しておくから」  是沢院長はキーボードを叩きながら、自明のことの ように口にする。  「そんなにはいいです。一週間分でお願いします」爽 太はすかさず口にする。  「一週間分?」是沢院長は眉をひそめて爽太を見た。  「話をちゃんと聞いていたのかね。毎日飲むことで効 果が見込めるタイプの薬なんだ。それくらいの期間服 用したところで、すぐに体重は元に戻ることになる。 わざわざ来たんだ。せっかくだから三か月分持って行 きなさい」  ぞんざいな口調で命令するように言う。やはりそれ  が地金のようだ。それでも爽太は従うことはしなかっ た。  「一週間分でいいです」ときっぱり口にする。  「なんだ。お試しか」是沢院長は馬鹿にしたように口 を歪めると、「はいはい。一週間分ね。じやあ、会計 時に受付で渡すから」と肩をそびやかしてパソコンに 向き直る。これで話は終わりということか。  「薬はここでもらえるんですか。処方箋を持って調剤 薬局に行く必要はないんですね」と確認のために訊い てみる。  「ああ、ここで渡すよ。何か問題でもあるのかい」  「囗本の医療制度は、医薬分業が基本だと聞いたこと があるもので」  「それはあくまでも任意の話だよ。医師と歯科医師は 特例として調剤することが認められている。薬を扱う のは何も薬剤師の特権ってわけじゃない」  前回とはまるで逆の発言だ。冷静でいようと思って いたけれど、やはり腹が立ってきた。毒島さんに難癖 をつけて首にしろ、と社長に迫った恨みもある。  「−まだ、何かあるのかね」  立ち上がろうとしない爽太を見て、是沢院長が訝し げな声を出す。  「夏ごろ、水虫の治療でここに通っていたことがある んです」  「水虫−? ああ、そうか。それでその後、どう なったかね」是沢院長は興味なさそうにパソコンの画 面に目をやった。   丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶  丶丶丶丶丶丶丶丶  「お陰様でよくなりました。ステロイド外用薬を塗っ たところ、すぐに治って、その後は再発していませ ん」と皮肉を込めて言ってやる。  「なんだって?」是沢院長は眉根を寄せて爽太の顔を 見る。  「素人が知ったかぶりをするものじゃないよ。ステロ イドで水虫は治らない。水虫に効果があるのは抗真菌 薬だ。前に出したのもその薬だよ。何を勘違いしたの か知らないが、専門家の前で間違った知識は口にしな い方がいい」  どうやら自分の見立てが間違っていたとは微塵も 思っていないようだ。怒るのを通り越して本気で呆れ た。もう二度とここに来ることはないだろう。  「勉強になりました。どうもありがとうございます」  胸ポケットに手をやってから診察室を出た。受付で お金を払い、薬を受け取った。これで役目を果たした とほっとした。  その夜。爽太は狸囃子を訪れた。小あがりの席で毒 島さんたちが待っていた。  「どうでしたか」待ちかねたように毒島さんが訊いて きた。  「手に入れました。サドレックスー週間分です」  是沢クリニックで受け取った薬を、領収書やお釣り と一緒に飲み物や料理の並ぶテーブルの上に置く。  「それからこれが院長とのやりとりを録音したICレ コーダーです」  再生ボタンを押すと、是沢院長とのやりとりがス ピーカーから流れ出す。毒島さんはもちろんのこと、 方波見さんと刑部さんもテーブルの上に身を乗り出し た。  『じやあ、簡単に説明をしておくか。これは厚労省が 唯一認可している食欲抑制剤だから、ドラッグストア で売っているサプリメントとは違い、服用すれば間違 いなく体重は減ることになる。しかし服用をやめれば 体重は元に戻る。それについてはあらかじめ覚悟をし ておくように』  それで説明が終わったことに、毒島さんたちは一様 に驚いた顔になる。  「説明はこれで終わりなの?」と方波見さん。  「服用の仕方や注意点、副作用や制限についてはまっ たく説明していませんね」と言っだのは刑部さんだ。  「おそらく添付文書には目も通していないんでしよう ね。〈できる限り最小有効量を守ること〉とか、〈投与 期間はできる限り短期間とし、三か月を限度とする〉 という文言が入っていることには気づいていないのか もしれません」と毒島さんがため息をつき、「この薬 は一日一錠、昼食前の服用が原則なんです。夜に飲む と睡眠障害を引き起こす可能性があるからです。しか し録音を聞く限りでは、院長はそんな説明は匸冐もし ていませんね」と爽太に向かって質問する。  「はい。そんな説明は受けませんでした」と爽太は頷 いた。 「そもそもの話だけど、太っていない水尾くんにそん な薬を処方すること自体がおかしいんじやないか」  馬場さんがスマートフォンを見ながら、素朴な疑問 を口にする。  「調べたら、その薬は処方するにも条件があると書い てあるけどな。肥満度70とか、BM135以上ってかな り太っているってことだよな。水尾くんとはまるで合 致しないけど、これはどういうことなんだ」  「それは保険適用の条件ですね。前提条件にくあらか じめ適用した食事療法及び運動療法の効果が不十分〉 という項目もあるので、該当する患者さんはかなり隕 定されるんです。でも自由診療なら、該当しない患者 さんでも薬の処方が可能です」と毒島さんが馬場さん に向かって説明した。  自由診療。  それがこの問題のポイントだった。  あの夜、銀座を後にした爽太と毒島さんは一緒に神 楽坂に戻った。方波見さんと刑部さんに話をしたい、 と毒島さんが言ったからだ。方波見さんに電話をする と、まだ狸囃子で飲んでいると言う。すぐに行きます、 と答えて、行きましよう、と毒島さんに言うと、この 顔で会うのは恥ずかしいと言い出した。それで途中で 化粧を落として、眼鏡をかけて普段の顔立ちに戻った。  いつもの容貌に戻った毒島さんは、狸囃子に着くと 方波見さんと刑部さんに謝った。心配して誘ってくれ たのに嘘をついて斷って、是沢院長に文句を言おうと していたことを率直な言葉で詫びたのだ。そうした上 で自分の頑なさと狭量さを反省して、今後は同じこと があっても、もっと冷静に対処をするつもりだ、と頭 を下げたのだ。  もちろん方波見さんと刑部さんに異存はなかった。 その件はそれで終わりとなったが、その後であらため て毒島さんが、サドレックスの件を方波見さんと刑部 さんに説明した。二人は顔を見合わせて、そんな話は 聞いたこともない、と言い合った。近くのクリニック でそんな薬を処方していれば、噂くらいは聞こえてく るものなのだ。方波見さんがスマートフォンで是沢ク リニックのウェブサイトをチェックした。しかしどこ にもそんな薬を扱っていることは謳っていない。  「変ね。本当に扱っているならウェブサイトに載せる と思うけど」  「妹はロコミ掲示板で見たとか言ってました」  ロコミ掲示板はSNSを利用した匿名掲示板で、十 代から二十代の若い利用者が多いことが特徴だ。刑部 さんが自分のスマートフォンを操作して、ダイエット 関係のスレッドにその話題があるのを発見した。厚労 省に認可されたSという痩身剤が、神楽坂のKクリ ニックで購入できる、他のクリニックは細かいことに うるさいが、ここは院長が大ざっぱなので、半年分で も一年分でも薬を出してくれる、と書いてある。  宣伝はしていないのに、ロコミでそんな噂が広まっ ているらしい。  「変ですね。サドレツクスなら、美容外科で処方して いるところがたくさんありますよ。そういうところは 自分のウェブサイトで堂々と宣伝しています。きちん と広告を出さないなんて妙な気がしますけど」と刑部 さんが意見を口にする。  「半年分とか一年分を出しているってことを考えると、 たしかに裏があるかもしれないわね」方波見さんが腕 組みをする。  「あの、基本的なことを訊いてもいいですか。どうし て院長はこの薬に限って、自分のクリニックで処方し ているんですか。他の薬は処方箋で対応しているの に」  爽太が訊くと、「もちろんお金よ。自由診療の薬は 販売者が自由に売価を設定できるのよ」と方波見さん が教えてくれた。  「この薬の卸値はこれくらい」と方波見さんはスマー トフォンの電卓機能を使って、一錠当たりの単価を表 示した。  「保険適用で処方した際の薬価がこれで、調剤薬局で 扱う保険適用外の薬価がこの程度。そして今回、水尾 さんが処方してもらった一週間分の薬の領収書がこれ。 計算すると一錠当たりの単価はこれくらい」  方波見さんが示したスマートフォンには、さらに大 きな数字が表示されている。以前、あのクリニックで 見た身なりのいい女性患者のことを思い浮かべた。会 計の際に数万円も払っていたのはこのためだったのか。  「この薬って、通販とか個人輸入では買えないんです か」  「規制上の区分は向精神薬です。だから通販はもちろ ん個人輸入も禁じられています。美容整形のクリニッ クには、もっと高い値段で売っているところもありま すから、特に暴利を貪っているわけではありません。 しかし未成年者を相手に、大量に売りつけるのは問題 がありますね」  毒島さんの言葉に、方波見さんと刑部さんは頷いた。 その後で三人の薬剤師は顔を突き合わせて意見を言い 合って、結果として、この件をこのまま見過ごすわけ にはいかないという結論に至った。 「とりあえず薬の実物を確認したいですね」 「でも私たちが買いに行くわけにはいきませんよ」  毒島さんと刑部さんの言葉を受けて、方波見さんが 爽太の顔を見た。  「ということで私たちがお金を出すので、その薬を買 いに行ってもらえないかしら」  爽太に断る理由はなかった。薬を手に入れたら、同 じメンバーでまたこの店に集まることにして、その囗 はお開きになった。  そういう経緯で手に入れたのが、このサドレツクス なのだ。  「−この薬、何か変じやないですか」  PTP包装シートに入っだ薬をかえすがえす見てい た毒島さんが不思議そうに首をひねった。「サドレツ クスつてこんな薬だったかな。私か扱ったものとは何 か違うような気がするんですが」  「そうなの?」と方波見さんが首をひねる。「ウチの 薬局では扱ったことがないから、私たちはよく知らな いのよ」  「以前いた薬局で扱ったことがあるんです。近くに有 名な美容外科があったもので……」毒島さんは慎重に PTP包装シートから錠剤を取り出した。そして顔の 前に近づけて、「やっぱり変です」と断言した。  「識別コードが潰れていて読めません。もしかしたら 偽物かもしれませんよ」  「えっ、偽物?」  方波見さんと刑部さんが毒島さんににじり寄る。交 代で錠剤を手にしては、たしかに変ですね、読み取れ なかったら識別コードの意味がないですよ、と言い 合った。  意味がわからない爽太と馬場さんに、毒島さんが説 明してくれた。正規に流通している錠剤には、必ず製 造会社と製品名を特定する識別コードが刻印されてい るそうだ。それがないということは、正規に作られた ものではないということになる。  「医師が偽薬を患者さんに渡しているなんて信じられ ない話ですけど」  「ブローカーに騙されて、本人も気づいていない可能 性もありますよ」  「そういえば過去にも癌治療薬の偽物が出回った事件 がありましたよね」  「怪しげなブローカーから仕入れた薬を売ること自体、 金儲け優先で患者さんの安全を顧みない行動であり、 それだけで医師失格と言えると思います」  三人はそれぞれに厳しい意見を口にする。  「でも、あのクリニックが入っているのは自社ビルで すよね。あの院長の性格が悪いことはわかっています が、そこまでして金儲けをする必要があるんでしょう か」  爽太の疑問に答えたのは方波見さんだった。  「自社ビルには違いないけれど、名義は奥さんになっ ているそうよ。前に社長に聞いたことがあるんだけど、 あの院長、入り婿らしいのよ。開業するに当だっても、 義理の父親が資金をすべて援助したそうで、奥さんに はまったく頭が上がらない状態なんですって。財布の 紐もすべて奥さんが握っていて、だから自由に使える お金はあまりないみたい」  それで百目鬼社長に接待を強要したり、偽物まがい のサドレツクスを売って小遣い稼ぎをしているわけか。  「それでこれからどうします。放っておくわけにはい きませんよね」  「でも偽物の可能性が高いというだけで、まだ偽物と 決まったわけではないですよ」  「製薬会社に問い合わせて、調べてもらうことは出来 ないんですかね」  「調べてもらえたとしても、時間がかかりそうな気が するけれど」  「手っ取り早いのは飲んでみることですね」  錠剤を指でつまみあげる毒島さんを、「ちょっと 待って」方波見さんが止める。  「偽物ならどんな添加物が混じっているのかわからな いのよ。そんな簡単に飲んでみるとか言わないの」  「でも実際にこの薬が処方されているわけですよね。 そしてこれを習慣的に飲んでいる患者さんがいる。こ れは早急になんとかするべき問題だと思います」  「それはそうだけど、でも飲んだところで偽物かどう かはわからないじやない」  「いえ、ある程度はわかります」と毒島さんは言い 切った。  「私の場合、飲んで三十分ほどで空腹感が消えました。 効果が持続するのは約八時間。副作用としては睡眠障 害と口の渇きが強かったです。これを飲んで同じ効果 と副作用があればいいですが、効果が弱かったり、別 の副作用が出れば、偽物の可能性があると推測できる と思います」  「もしかして飲んだことがあるんですか」  爽太の質問に、「はい」と毒島さんは頷いた。  「試せる薬はなるべく試してみるようにしていますか ら」  指でつまんだ錠剤を口に運ぼうとする毒島さんを、 「だから待ちなさいってば」と方波見さんが慌てて止 める。  「やっぱリダメよ。きちんとした薬ならともかくも、 偽物の可能性がある薬を飲んだらダメ」  「でも他にいい方法がありません」  言い合う二人の間に、「まあまあ、落ち着いて」と 馬場さんが割って入った。  「話を聞いていて思ったんだけど、マスコミに調べて もらうっていうのはどうだろうな。偽の痩せ薬を処方 している医者がいると情報提供をすれば、興味を持っ て動いてくれる雑誌やテレビ局があるかもしれない ぞ」  「なるほど。それはいい考えだと思います」刑部さん が手を打った。  「友達にテレビ局でADをしている人がいます。その 人に担当の人を紹介してもらうように頼んでみます よ」  「そういえば旦那の知り合いに雑誌記者の人がいたは ずだわ。じやあ、私はその人に連絡を取ってみる」と 方波見さんも頷いた。  「だからこの薬は飲んじやダメよ。証拠として、すべ てこのままにしておいて」と手を伸ばして錠剤を毒島 さんから取り上げる。  「とりあえず飲んでみるのが一番早いと思うんです が」  毒島さんはどこか納得できないような顔だった。し かしそれで話はまとまった。  「動くのは早い方がいいわね。すぐに旦那に電話をし てみるわ」と方波見さんが立ち上がる。  「私も友達に連絡してみます」と刑部さんも腰を上げ る。  「じやあ、俺も知り合いに当だってみるか。マスコミ につながりのある人間かいるといいんだが」と馬場さ んも大きく伸びをする。  「じやあ、今日はこれでお開きですね」と毒島さんが 言うのを、方波見さんと刑部さんが、「あなたはまだ いいわよ」「そうですよ。毒島さんはまだゆっくりし ていってください」と一緒になって押しとどめた。  「えっ、でも」と戸惑う毒島さんを置き去りにして、 方波見さんと刑部さんはお金を置いて席を立つ。  馬場さんも立ちあがり、「じやあな、しっかりやれ よ」と爽太の肩を叩いて出て行った。  後には爽太とぽかんとしている毒島さんが残された。 毒島さんと二人で話をしたいので、そういう状況にし てくれないか、と前もって三人にお願いしてあったの だ。  「あの、毒島さん」爽太は口元を引き締めると背筋を 伸ばした。  「これまでのこと、あらためてお礼を言います。伯父 のことやステロイドの件で色々と助けていただきあり がとうございます」  「とんでもありません。こちらこそ刑部さんの件と銀 座の件でご迷惑をおかけしてすみませんでした」毒島 さんもかしこまって頭を下げ返す。  「いいえ、毒島さんにしていただいたことに比べれば、 僕がしたことなんか些細なことに過ぎません」爽太は さらに居住まいを正した。  「それでと言ったら何ですが、ちょっと考えたことが ありまして。それについて話を聞いてもらいたいので すが」  「どういうことでしょう」  「さっきの話ですが、マスコミが動いてくれるかどう かはわかりませんし、かりに動いたところでどれくら いの時間がかかるのかも読めません。それでも毒島さ んは年内でどうめき薬局を辞めるつもりでいるわけで すか」  「そうですね。結果を見届けられないのは残念ですが、 前にお話ししたように家族との問題があるもので……。 残念ですが後は方波見さんたちにお任せするしかない と思います」  やはりそうか。  「でも辞めるという話は、まだ誰にもしてないわけで すよね」  「はい。もうそろそろかなとは思っていますが」  「話というのはそれなんですが……」爽太は慎重に話 を切り出した。  「毒島さんは前に、自分は家出同然に家を出た、家族 に居場所を見つけられたら連れ戻されるかもしれない、 と言ってましたよね。どうして毒島さんが家を出だの か、どうしてご家族が毒島さんを連れ戻そうとしてい るか、そのあたりの事情は訊きません。でも毒島さん と知り合って、ここまで色々と話を聞いてきて、僕な りに考えたことがあるんです。だから今日はそれを聞 いてもらいたいのです」  毒島さんは微妙な表情で首をかしげる。意味がよく わかっていないのだろう。  「結論から言います。ご家族は、毒島さんが現在どう めき薬局で働いているのを知っていると思います。 知っていて、そのまま見守っていると思います」  「何を根拠にそんなことを」毒島さんの眉間に深いし わが寄る。  「知っているはずがありません。私はずっと秘密にし てきましたから」  「ひとつ訊きますが、毒島さんのお父さんのご職業は お医者さんではないですか」  毒島さんの目を見て爽太は言った。  「それも勤務医ではなく開業医。立川で中規模の総合 病院を経営されていると思うのですがI」  黒縁眼鏡の中の瞳が大きく見開かれる。それをイェ スと受け取り、爽太は別の質問を口にした。  「徳岡さんという男性をご存知ないですか」  「……知りません」毒島さんはこめかみに指を当てて、 首を横にふる。  「では偽名ですね。年は三十五歳、中肉中背で猫背、 頭が薄くなっています。七三分けの鬘やサングラスを つける姿も見ています。ちなみに風花で見たときは、 窓際の席に座って、テーブルに医師国家試験の受験参 考書を積み上げていました」  「三十五歳で医師国家試験の受験参考書?」  毒島さんは、あっと言って手で口を押さえた。  「誠さんでしょうか。従兄です。医大を出たものの、 医師国家試験に合格できず、父の手伝いをしながら浪 人生活をしていました。私か家を出る前の話ですが、 もしかしたらまだ受かっていないのかもしれません」  「やはり知っている人なのですね」  「本人を見ないことには何とも言えませんが……。で も誠さんが風花にいたってどういうことですか。いえ、 どうして水尾さんが彼のことをご存知なのですか」  「その男性は、徳岡という名前でウチのホテルに泊 まっていたんです。僕が思うに、お父さんの命を受け て、数か月に一度、毒島さんの様子を窺いに来ていた んじやないかと思います。今年になって三度、宿泊し ていました。僕がチェックアウトを担当したときに、 とある医療法人の名前で手書き領収証を出すように言 われたんです。それまでは何とも思いませんでしたが、 この前、毒島さんのご家族の話を聞いた後、ある可能 性を思いついて、その医療法人をネットで検索してみ ました」  爽太はスマートフォンを取り出し、検索したページ の履歴を呼び出した。  「その医療法人は立川で総合病院を運営していました。 その病院の院長の名前が毒島史剛でした。それでご家 族、たぶんお父さんだろうと思ったわけです」  爽太は液晶画面を毒島さんに見せた。  毒島さんは何も言わない。それを肯定ととって爽太 は話を続けた。  「徳岡氏−じゃなくて、その誠さんが風花にいた目 的は、たぶん毒島さんの姿を写真に収めて、現在の生 活ぶりをお父さんに報告するためじゃないでしょうか。 誠さんの宿泊履歴から考えて、毒島さんがどうめき薬 局に勤めたすぐ後には、お父さんはそのことを把握し ていたのだと思います」  「誠さんの話はいいとして、どうして父が私の居場所 を知ったのかがわかりません。北海道にいたときも、 九州にいたときも、そしてもちろん今に至っても、実 家には一度も連絡を入れていません。どういう方法で 父はそれを知ったのでしょうか」  毒島さんは信じられないという顔で言い募る。  「残念ながらと言いますか、それは少しも難しいこと ではないです。前に刑部さんから聞いたのですが、成 人して以来、選挙には必ず行っているというのは本当 のことですか」  「それは本当です。社会人として当然のことですから。 でもそれが今の話とどんな関係があるのですか」  「居住地の選挙権を得るには、住民票を異動すること が不可欠です。つまり転居するたびに毒島さんはそれ を動かしていたわけですね」  「もちろんです。勤め先から住民票の提出を要求され ることもありますし、行政サービスを受けるためにも 必要ですから」  「有権者としても、納税者としても、それは正しい行 いです。でも家出人としては失格ですね。住民票を動 かせば、転居先はすべて家族に知られます」  「そんなの嘘です。役所が第三者に個人情報を教える はずがありません」  「そうです。第三者には教えません。でも同居してい る家族は第三者ではありませんよ」  毒島さんが固まった。ぽかんとした顔で、うつろな 視線を爽太に向ける。  「赤の他人が毒島さんの住民票を、勝手に閲覧するこ とは出来ません。でも親子に限っては話が別です。世 帯の住民票を閲覧すれば、転居先を確認することは出 来るし、その後に異動しても、戸籍の附票を取り寄せ れば、異動履歴を確認することが出来るんです」  そのふたつは家出人を捜すために、家族がするべき 最も基本的なことだった。そして爽太はそのことを家 出した息子を捜しに来た田上さんから聞いて知ってい た。  「じやあ、私か今までどこにどれくらいの期間住んで いたのか、父はすべて知っているということですか」  「住所に関しては役所に行けばわかります。でも勤め 先や暮らしぶりはわからない。それで誠さんという人 に依頼したのだと思います。毒島さんの転居した先々 を訪れては、こっそりと仕事場の場所や日常生活の様 子を探っていたのではないでしょうか」  あの七三分けの鬘やサングラスは、正体を隠す変装 のつもりだったのだろう。参考書さえ持って行けば、 医師国家試験の勉強はどこでもできる。日当をもらっ て毒島さんの様子を探りながら、空いている時間を勉 強に使う。それは彼にとってもおいしいバイトだった のではないだろうか。  「そう言われると腑に落ちるところもありますが……。 でも、信じられません。そこまで知っていながら、ど うして私を連れ戻そうとしないのか」  毒島さんはため息をついて、天井を見上げる。  「最初の頃は父からの使いという人が転居先に来て、 すぐに家に戻りなさい、と言われることがあったんで す。でも最近はそういうこともなくなっだので、完全 に姿をくらますことが出来たと思っていたんです」  それがただの勘違いだったなんて、と毒島さんは唇 を噛む。  「これは僕の想像ですが、最初は毒島さんのことを心 配して連れ戻そうとしたものの、薬剤師としてしっか り仕事をしていることを知って、距離を置いて見守ろ うと考えたのではないですか」  爽太が気を引き立てるように言ったが、毒島さんは ゆるゆると首をふった。  「うちの父はそんな温厚な人間ではありません。すべ てを自分一人で決めて、まわりがそれに従わないと怒 りだすような性格です。たとえて言うと是沢院長をさ らに独善的にしたタイプです。今だから言いますが、 私か銀座にまで押しかけて是沢院長に文句を言おうと したのも、彼が父に似ていて、自分の感情が抑えられ なくなったせいなのです」  今になってはただの八つ当たりだとわかります、と 俯いた。  「正直言って、あのとき水尾さんに止めていただき助 かりました。もし本当に文句を言っていたら、今頃は 自己嫌悪できっとひどい状態になっていたと思いま す」  それから通りかかった店員に手をあげて、「すみま せん。あのお酒をください」と壁に張られたメニュー を指さした。  「この際だからお話ししますが、前に話に出されたミ スコンの件、それをないことにしたい過去だと言った のも、やはり父が関係しています」  「どういうことですか」  「父が大学の学長と知り合いだったのです。同じ大学 の先輩と後輩だったとかで、その関係もあって、私か 準グランプリに選ばれたらしいのです」  「それはお父さんが裏で手をまわしたということです か」  爽太は思わず声をひそめた。にわかには信じられな い話だった。  「証拠はあるんですか」  「証拠も何も父が自ら口にしました。卒業後の進路に ついて、お互いの意見がぶつかったとき、はっきりと 父は私に向かって言ったんです」  注文したお酒が運ばれてきた。切り子細工のグラス に入った吟醸酒を半分ほど一気に空けると、毒島さん は家族の話をしてくれた。  毒島さんには兄がいるそうで、兄は医者に、妹であ る毒島さんは薬剤師になるように、と父親に言われて 育ってきたという。  「兄は医者になって父の後を継ぎ、私は薬剤師になっ てサポートをするように、というのが父の口癖でした。 そして私はその言葉を疑うことなく信じて大人になり ました。医師とは人間の命を救う崇高な使命を帯びた 人間なのだ、と母から繰り返し聞かされていたことも あり、父はすごい。父は偉い、父の言うことはすべて 正しい、とただ無邪気に信じていたからです」  そんなふうに素直に育ってきたが、高校を卒業して、 大学に通いはじめると、自分の将来についてこのまま でいいのかと疑問を持つようになった。しっかりした 考えを持った同級生たちが大人びて見えて、ただ父の 命令通りに生きてきた自分が情けなくなった。それで 自分を変えたいと思うようになった。ミスコンに応募 したのも、そんな気持ちの表れだった。そしてミスコ ンで準グランプリに選ばれたことが大きな自信になっ た。父親の庇護がなくても自分は一人で生きていける のだ。毒島さんは大きな自信を持ったのだ。  「薬剤師になろうと思っだのは父の命令に従った結果 です。でも勉強を続けるうちに、薬についてどんどん 興味を抱くようになりました。そして将来は薬剤師と して、医師と同じように困っている人を助けたいとい う気持ちを、強く持つようになったんです。当時、大 都市圈で薬剤師は余っているけれど、地方では人手不 足で困っているという話がありました。だから卒業式 後の家族のお祝いの席で、将来は薬剤師不足に悩んで いる地方に行って仕事をしたい、と父に言ったんで す」  父はミスコンに参加することにも反対しなかった。 だから娘の成長を喜び、諸手をあげて賛成してくれる と思った。しかしその考えは甘かった。  『馬鹿者’・ 地方になんか行く必要はない。お前がど うするかは俺がちゃんと考えている。まずウチの病院 で経験を積んだら、適当な調剤薬局の経営権を取得出 来るような段取りを考えている。だから余計なことは 考えるな。お前は俺の言う通りにしていればいいん だ』  そう顔を赤くして怒鳴ったそうだ。  「それで言い合いになったんです。私か父に表立って 反抗したのは初めてでした。そのときの父はかなりお 酒が入っていました。私かあまりに納得しないことに 痺れを切らしたのか、ついには『誰のお陰でミスコン の準グランプリになれたと思っているんだ、全部、俺 の差配のお陰だぞ』と叫んだのです」  毒島さんはそこまで言うと、ふうっと息を吐いて、 グラスの吟醸酒を飲み干した。そして通りかかった店 員にお代わりを注文した。  「父の言葉に私はショックを受けました。このまま家 にいたら二度と父に逆らうことは出来なくなるだろう と思い、父の影響から逃れるためには家を出るしかな いと思いつめました」  それで私は家を出たのです、と毒島さんは言った。  そんな事情があったのか。爽太ぼそっと息を吐き出 した。  「だから父が私の居所を知っていて、それでも黙って いるという話をすぐに受け入れることが出来ないので す。あの父に限って、そんな悠長な方法を選ぶとは思 えません」  毒島さんは真っすぐに口を結んで下を向いた。他人 が窺い知ることが出来ない家族の事情があるのだろう。 余計な嘴を挟みたくはないが、爽太にも思うところが ある。それで毒島さんを剌激しないように、言葉を選 んで話をはしめた。  「毒島さんの家族の事情はわかりました。でも卒業後 にすぐ家を出られたということは、もうずいぶん家に 帰られていないことになりますよね。想像するに五年 か六年というところでしょうか。毒島さんの不在を通 して、お父さんやご家族に変化があったとしても、不 思議ではない年月が経っていると思います」  爽太は田上弓子の話をした。  田上さんは、家出した息子を搜すために、戸籍の附 票を取り寄せて、神楽坂のアパートの住所を突き止め た。訪ねてみると、すでにその場所には住んでないと わかったが、しかし田上さんはそこで諦めることをし なかった。写真を持って、近くの民家や商店、会社な どを訪ねては、この子を知りませんか、前にこのあた りに住んでいたはずなんです、もし知っていることが あれば、なんでもいいから教えてください、と手当た り次第に訊きまわったのだ。道案内のため同行した爽 太は、親とは子供のためにここまでするものなのか、 と胸を打たれた。  「毒島さんの話を聞いて、田上さんのことを思い出し ました。子供が突然いなくなって、心配しない親はい ません。やり方は一方的かもしれませんが、毒島さん のお父さんも毒島さんを心配して、自分なりの愛情を かけていたんだと思います。だからいまお二人に必要 なのは話し合うことだと思います。話し合えば、きっ とお互いにわかり合えることが出来ると思います」  喋りながら毒島さんの様子を窺った。しかし黙った まま身じろぎもしなかった、それで思い切って言って みた。  「もし連絡をしづらいというなら、僕が協力してもい いですよ。休みの囗にこっそりその病院に行って様子 を見てきます。周囲に評判を聞き込むか、あるいはお 父さん以外の人とコンタクトを取ってもいいですよ。 お母さんか、お兄さん、どちらかにこっそり接触して きます」  「いえ、いいです。水尾さんにそこまでご迷惑はかけ られません」  毒島さんは吟醸酒のお代わりをIロ飲んでから、  「正直に言えば、私もこのままではいけないと思って いたんです。今度母に連絡を取ってみます。そして父 と話し合える場を作ってもらいます」  「そうですか。それがいいと思います。うまくいくと いいですね」  爽太は思わず破顔した。毒島さんが父親と和解をす れば、どうめき薬局を辞める理由もなくなるわけで、 そうなることが一番の方法だと思ったのだ。  「あの、水尾さん、今度は私か質問してもいいです か」  「はい。何でしょう」爽太は口元を引き締めて、背筋 をぴんと伸ばした。  「水尾さんは私のために、どうしてそこまでしてくれ るのですか」  「えっ、それは……」  いきなり訊かれて答えにつまった。わかって言って いるのか、それともまるでわかっていないのか。爽太 が口ごもっていると、質問の意味がわからなかったと 思ったのか、毒島さんは眉根を寄せて、言葉を選ぶよ うに言い直した。  「水尾さんは薬局に来られたときから、私の話をよく 聞いてくれました。もちろん自分の病気に関心を持つ のは当然ですが、治った後も私のところに足を運んで、 色々な質問をされました。さらには銀座にまで来て、 私かどうめき薬局を辞めるのを引き留めてもくれまし たし、どうしてそこまで私にこだわるのかIただの 親切心とも思えませんし、もし理由があるなら、それ を教えてもらうわけにいきませんか」  −それはもちろん毒島さんが好きだからです。  そんな言葉が喉元まで出かかった。思い切って言っ てみようか。−いや、やはり言えない。爽太はごく りと唾を飲み込むと、  「それは毒島さんの話に興味があるからです」と口に した。  「薬の話を聞くことが好きなんです。面白いです。勉 強にもなります。だからこれからもそんな話をもっと 聞かせてほしいです」  「やっぱりそういうことですか」と毒島さんは納得し たように頷いた。そして口角をあげてにこりと笑った。  あれっ、と思った。もしかしてこれは初めて見る毒 島さんの笑顔だろうか。  「初めてです。医療関係者以外で、薬の話が好きだと いう人と会ったのは」  微笑みながら毒島さんは話を続けた。  「世間の人にもっと薬のことに興味を持ってもらえる 方法はないかと、私は常々考えていたんです。だから 薬の話をするときは間違いがないように、正確に話す ことを心掛けてもいたわけです。でも健康な人ほど薬 の話に興味を持だないのが実情です。それなのに水尾 さんは、ご自身のみならず、ご家族やご親族、果ては ホテルのお客様のことにまで、病気と薬の関係につい て興味を持たれているご様子です。それぞれの病状や 薬の使い方を心配して、わざわざ私のところに足を運 ぶ、その姿勢に感銘を受けました。だから客室でリン ドロンDP軟膏がなくなって困っていると聞いたとき、 わざわざ私を頼ってくれたのだから、なんとか力にな りたいと思ったのです」  植木母娘の件でわざわざホテルまで足を運んでくれ たのには、そういう理由があったのか。  「水尾さんがウチの薬局に来た経緯を考えると、昔か ら薬の話が好きだったとも思えません。それが今では、 私か仕事を辞めるのを引き留めるほどに、薬の話に関 心を持っているご様子です。どういうきっかけでそこ まで薬のことに興味を持ったのか、よければそれを聞 かせてもらえないでしょうか」  どうやら薬の話を聞きたいために、どうめき薬局を 辞めるのを引き留めていると思っているようだ。動機 と目的が完全に逆だ。それを説明するのは簡単だけど、 それを言ったところで毒島さんが喜ぶとは思えない。 それにこんなに嬉しそうな毒島さんを見るのは初めて だ。彼女をがっかりさせることは自分にとっても本意 ではない。  「僕が薬の話に興味を持つだのは、すべて毒島さんに 会ったことが原因ですよ。薬の話は難しくて専門的な 話はよくわかりません。でも実はとても大事なことだ ということはわかります。正しい知識も持たないまま で適当に服用すると、重大な問題を引き起こす可能性 がある。そんなことも毒島さんと会って初めて知りま した。セントジョーンズワードのことや、ステロイド のこともとても興味深い話でした。毒島さんと会うこ とがなかったら、そんなことは知り得ることもなかっ たと思います。だから毒島さんと知り会えてよかった。 僕はそんな風に思います」  そこまで一息で言ってから、「すみません。こんな ことしか言えなくて」と頭を掻いた。  「毒島さんが聞きたかったのは、きっともっと別のこ とですよね」  「いいえ。水尾さんの正直な気持ちが聞けてよかった です」  毒島さんは笑顔のままで、ゆっくりと首を横にふる。  「私も水尾さんと知り会えてよかったです。どうすれ ばもっと世間の人に薬のことに興味を持ってもらえる か、その方法をもっと真剣に考えなければいけないと あらためて思うようになりました」  やっぱり真面目な人なのだ。  「そういうわけなので、どうかこれからもよろしくお 願いします」と毒島さんは真面目な顔で頭を下げる。  「いいえ。こちらこそ」  同時に頭を下げながら、そういえば最初からお互い に頭を下げ合っているな、と爽太は考えて、くすりと 笑った。 作中に出てくる薬の商品名は架空のものです。 薬は医師や薬剤師に相談のうえ使用ください。 参考資料 『処方解析トレーニング帳』門林宗男・前田初男編著 化学同人 『日経DIクイズ18』日経BP社 『日経DIクイズ 圃回ゴ呂』日経BP社 『身近にある毒植物たち』森昭彦 サイェンスーアイ新書 『薬屋りかちやん廴2』新井葉月 双葉社 初出  「恋するホテルマンと笑わない薬剤師」『『このミステリーがすご い!』大賞作家書き下ろし圃OO内盲}‐卩』二〇一八年六月  「消えたステロイドとお節介な薬剤師」『『このミステリーがすご い!』大賞作家書き下ろし圃OO内盲}‐U』二〇一八年匸一月  「奇妙なクレーマーと笑わない薬剤師の秘密」書き下ろし  「俺様院長の理不尽な処方箋と笑わない薬剤師の過去」書き下ろ し 本書は、2019年5月に小社より刊行した文庫を電子書 籍化したものです。 この物語はフィクションです。作中に同一の名称があった 場合でも、実在する人物、地名、団体等とは一切関係あり ません。 薬も過ぎれば毒となる 薬剤師・毒島花織の名推理 配信囗 2020年5月9囗 著 者 塔山郁 発行人 蓮見清一 発行所 株式会社宝島社     〒102−8388     東京都千代田区一番町25番地 電 話 販売03−3239−5275